大正時代発行の「摂北温泉誌」において「宝塚八景」に選ばれた梅の名所宝梅。八馬兼介(初代)は、煉瓦製造で富をなした成舞長左衛門の所有地であった宝梅の土地を明治36年に買収し、三代目兼介が大正12年には宝梅園土地建物合資会社を設立し、果樹園の経営に当たりました。
 その後、弟の駒雄が経営を引き継ぎましたが、駒雄は宝梅園内のコンクリート3階の洋館に住み、宝塚ゴルフ倶楽部でのゴルフ、宝塚会館ダンスホールでのダンスと宝塚をエンジョイしたようです。後には、宝梅園農場株式会社を設立し、乳牛牧場を経営し、牛乳を製造、販売しました。
(八馬兼介:海運業(現在の八馬汽船)に進出の後、西宮銀行(後の神戸銀行、現在は三井住友銀行)、西宮貯金銀行を創立し、各その頭取に就任するなど八馬財閥を興した阪神間で有数の大富豪であった。)


明治40年5月宝梅園
明治40年の宝梅園
この写真の裏には「明治40年5月下旬宇都宮小五郎氏に
誘われ阿部文治君と共に摂津寳塚付近なる寳梅園に清遊
を試しときの記念撮影なり」と記載。



宝塚名所寶梅園絵葉書たとう内記載地図「宝梅園及び近郊見取図」
寳梅園土地建物合資会社発行の「寳塚名所 宝梅園絵葉書」
のたとう添付の案内図。
大正末期から昭和初期の絵葉書と思われる。



「寳塚名所 宝梅園絵葉書」の一部
宝梅園梅林より少女歌劇場を望む蜜柑畑より稲野ヶ原遠望





     (桜花爛漫)             (梅林より少女歌劇場を望む)        (蜜柑畑より稲野ヶ原遠望」


案内書誌による宝塚の梅園(宝梅園・成寳梅林)の紹介
 書誌を見ると、明治時代頃までは、成寳(じょうほう又はせいほう)梅林が有名であったようですが、その後は梅林の名所は宝梅園に代わっていったようです。成寳という名称は、もともとの宝梅の地主の成舞長左衛門の姓の成と寳塚の寳を合成して名付けられたかもしれません。
 成寳梅林と宝梅園は地主の変更により名称が変わっただけで、同一の地域であった可能性もあります。

1.「寳塚温泉案内」明治36年7月発行
(成寳梅林)
「寳塚の町より数丁南の山麓に、成寳の梅林といふがあり、一名高臺(たかきや)の梅林とも云ふ。花の頃には数百の梅樹馥郁として清香を放ち、梢は空に知られぬ雪かと誤たる。雅人来りて花を見ん事を望まば、園主は悦んで扉を開き、一脚の床几一椀の渋茶を用意して歓迎すべしとなり」

2.「箕面電車・沿線案内」明治45年2月・箕面有馬電気軌道株式会社発行
(寳梅園)
迎寳橋の南に寳梅園を紹介しています。

宝梅 箕有電軌沿線案内地図


3.「寳塚沿線名勝誌」大正9年12月発行
成寳梅林(じょうほうばいりん))
「寳塚の町より数丁南の山麓に、成寳梅林と云へるあり、花候到らば数百株の白紅紅梅馥郁たる清香を放ちて、衣袂為めに薫ずるを覚えん、亦一仙境たるを失はず。

4.「宝塚乃しほり」昭和4年9月発行

「寳塚町より数丁南方、秀嶺の山麓に抱かれて眺望寛達、地域また広潤にして興趣尽きせぬ散策に適する。園内に数千株の白紅の梅樹あり、花候到らば馥郁たる清香を放ちて衣袂為めに薫ずるを覚え、一瓢を携行せる風人騒客の踵相接して賑ふ、蓋し絶好の観梅地として阪急沿線中の巨璧たるを失はない


八馬駒雄邸・寳梅牧場の紹介

八馬兼介の後に寳梅園を経営した弟の八馬駒雄は、当時珍しい3階建ての洋館をこの場所に建て、この地に住みながら、寳梅園・寳梅牧場を経営しました。

(八馬家の3階建ての洋館)

宝梅園 八馬1八馬邸全景



宝梅園 八馬2八馬家からの眺望






(宝梅牧場があった場所)
宝梅牧場の位置は、現在の地図で表現すると宝梅アーバンライフ及びアーバンライフの北側(宝梅中学の手前まで)にあったそうです。


「寳梅園の古墳」
 宝梅園 宝塚
かつて宝梅園内にあった古墳でありますが、現在は宝梅中学校に移築されています。古墳の横の碑には、下記の通り、古墳の由来が説明されています。
「この塚は八馬家の宝梅園梅林内(現在地より南西約二〇〇米の地)にあったものを昭和参拾八年椎崎良英氏がこの地を造成するに当り宝塚市が寄贈をうけ昭和参拾九年参月現在の地点に復元した。現在幅約六・五米奥行約五米高さ二米の古墳のような石室で古くから宝の塚として永く市民に親まれているものである  昭和参拾九年十月吉日建立 宝梅園農場株式会社」