8月15日は終戦記念日。 今年で太平洋戦争終戦から77年になります。昭和1612月に開戦した日本は昭和17年6月のミッドウェー海戦での大敗が転換点となり、以後昭和20年まで敗戦の道を進んでいきます。戦況の悪化は、宝塚に多大な影響、被害を与えました。

宝塚海軍航空隊

宝塚大劇場は決戦非常措置により昭和19年3月4日をもって閉鎖され、6月1日には大劇場を含む宝塚新温泉施設は海軍に接収されました。8月15日に滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊が開隊し、25日には三重海軍航空隊奈良分遣隊から第13期甲種飛行操縦専修生一千名が配属されました。その後、121に第14期生9百名、翌年には第15期生、16期生が入隊してくる一方、第13期生は10月頃より回天訓練基地などへ転属していきました。

昭和20年3月1日に宝塚分遣隊から改名した宝塚海軍航空隊には、常時3千5百名~4千名近くの海軍将兵が大劇場や新温泉諸施設を利用して生活しました。宝塚大劇場のエントランス入って右奥には「寶塚海軍航空隊跡地」の石碑が立っています。
寶塚海軍航空隊跡石碑(ブログ用)


「寳塚海軍航空隊跡地」石碑












川西航空機宝塚製作所への空襲

昭和20年に入ると、5月11日に西宮が大規模な空襲を受け、阪神地方への空襲が本格化していきます。7月24日には宝塚市域の川西航空機宝塚製作所が標的にされ、B29と小型艦載機併せて百五十機により爆弾が投下されました。現在の阪神競馬場、新明和工業宝塚工場の場所にあった川西航空機宝塚製作所は、敷地面積67万平米に及ぶ広大な工場で、軍用機の部品を製造していました。川西航空機の甲南、鳴尾、姫路の各工場は相次いで空襲を受けており、主力工場では宝塚が残っているだけでした。

工場には関西学院、神戸女学院等からの勤労学徒や宝塚少女歌劇予科、本科の生徒の一部も女子挺身隊として宝塚製作所に動員されていました。この空襲による死傷者は、死者83名、重傷者39名にのぼりました。また、被害は工場に留まらず、その周辺にも及び、宝塚市域良元村も23名の命が失われました。

 

戦争末期の宝塚温泉

昭和19年4月の宝塚温泉は、前月に決戦非常措置が発令され、不要不急の旅行が禁止されたこともあり、半数近い旅館が休業または廃業の状況にありました。旧温泉を含む分銅家、泉山楼、松凉庵等19軒の旅館は廃業し、軍需工場の川西航空機、東洋ベアリング、大阪機工等へ寮用に家屋を供出していました。また、料理を提供していた相生楼、三好野、鳥金等8軒は休業していました。当時の宝塚旅館組合の加入者は、旅館が宝塚ホテルや寿楼等26軒、飲食店は新温泉を含む9軒に減少していました。

終戦とともに、米軍による進駐が昭和20年9月25日から開始され、宝塚新温泉諸施設、宝塚ホテル、宝塚ゴルフ場等が接収されました。宝塚ホテルは米軍の将校クラブとして使用され、昭和30年の解除まで、接収が長期に亘りました。当時、入口看板には、英語で伊丹空軍基地部隊将校クラブと表記されていました。
進駐軍接収時代の宝塚ホテル(ブログ用)





進駐軍接収時代の宝塚ホテル