明治20年5月に温泉場が開業しましたが、同年10月11日の大阪朝日新聞に「寳塚天然温泉廣告」として、温泉場を経営していた保生会社と辨天樓・満壽亭・分銅家の3旅館が連名で広告を掲載しています。 
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(寳塚天然温泉廣告)
(掲載新聞)
 1887年(明治20年)10月11日大阪朝日新聞

 広告は明治20年9月付になっています。



下記の通り記載されています。
『 〇西ノ宮より二里余北 〇神崎より三里余北
〇宝塚天然温泉広告
兵庫県下武庫郡伊孑志村宝塚天然温泉の儀は 古来より患者に功験あること世人の能く知り給う処なり
然と雖も公然之れに入浴せしむるの構造及療養場のなきを遺憾に堪ず 明治十八年以来有志者協力し
今や内務省試験所成績且従六位高橋大先生の功能試験の好結果を得 弥其功験の著きこと明瞭たり
依之衛生上適当の入浴場及療養箇所に至る完全せしめ以て宏く諸彦に告げ 速に入浴御加養あらんことを祈望す
 但宿泊料其他不正の所為有之片は本社へ御通報相成度速に処分可致候
  明治二十年九月 宝塚温泉 保生会社
 
〇入浴客諸彦に告ぐ
宝塚温泉入浴御客様方従来御療養宿料一定不致為めに 御不便を醸し何共恐縮仕候依之
今般本社の許諾を得 同業者組合申合左の値段付の外一切冗費を省き可成御便利を図り候間
陸続御入浴御保養あらんことを伏て奉祈望候
 〇並上等 一泊 金二十五銭  〇中等 同   金二十銭  〇下等  同  金十五銭
 但下女下男の者へ御心付等一切不申受候
  
辨天楼  満壽亭  分銅家
  〇西ノ宮より人力車一人乗金十五銭  〇神崎より同斷金十六銭定
 

上記「寳塚天然温泉廣告」から次の事実が判明しました。

1.明治20年の温泉場開業時の旅館・桝屋とは満壽亭のことである
分銅家の小佐治豊三郎による明治44年11月3日付「宝塚温泉発見以来の顚末」には、温泉場開業時の旅館は桝屋・辨天樓・分銅家・小寳屋の4軒に過ぎなかったと述べています。小寳屋は掛茶屋で、辨天樓は後の旅館・泉山です。桝屋だけは以後一切の文献に出て来ません。
  今回、大阪朝日新聞の宝塚温泉の広告に桝屋についてのヒントがありました。この広告は温泉場を経営していた保生会社と辨天樓、満壽亭、分銅家の3旅館の連名に依るものですが、この満壽亭が小佐治豊三郎が述べている桝屋であると思われます。満壽は、日本酒に満寿泉(ますいずみ)といブランドがあるように、” ます”と読まれるケースは多く見られます。当初の旅館名が桝屋で、その後変更したか、小佐治豊三郎が満壽亭を簡略化して桝屋と記載したと思われれます。

宝塚温泉 満寿亭
左は以前のブログ「宝塚温泉場開業すぐの浴客宿の案内広告」で紹介した明治21年の「満壽亭」の広告です。







.温泉場開業以後の新設旅館への競合対策として、開業時に既に進出していた辨天樓、満壽亭、分銅家の3旅館が温泉場を経営している保生会社の公認旅館であることを示すとともに、3旅館の料金を統一し、公示することにより、お客様の便宜を図り、集客強化を狙ったと思われます。
広告には、保生会社により「宿泊料その他で不正をがある場合は保生会社に連絡ください」と、また、辨天樓、満壽亭、分銅家の3旅館により「宝塚温泉入浴のお客様につきましては宿泊料が一定していなかったため、不便をお掛けしました」とお詫びしています。温泉場開業後に進出し、しかも、保生会社の出資者ではないと思われる旅館・北柳亭(後の栄山)等との競争が激化してきたものと思われます。
  同業者組合という表現が出ていますので、保生会社系列の旅館で組合を既に結成していたことが分かります。

3.辨天樓、満壽亭、分銅家3旅館の統一宿泊料金は、一泊につき並上等で25銭、中等で20銭、下等で15銭と公示しています。また、宿泊料金以外の下女下男のへの心付等は不要であると添えています。