六甲と長尾の山並に囲まれ、武庫川の清流が流れる宝塚は山紫水明の地と謳われ、武庫川及び武庫川に架かる宝来橋は宝塚を象徴する景観となりました。明治35年頃、画家の山本永暉が藤沢南岳とともに選定した宝塚温泉八景には、「宝橋(宝来橋)新月」が選ばれています。また、宝来橋架設以前明治21年の大阪毎日新聞には、宝寿寺(平林寺塔頭宝寿院と思われる)の住職崇龍弁師が「武庫川帰帆」を含めた宝塚八景を選定したと報じられています。
明治22年の大阪朝日新聞の広告欄には、旅館分銅屋が「鮎沢山に御座候」、旅館辨天樓が「カジカを聞き飛ぶ蛍を見るに便」と掲出しており、宝塚温泉、旅館は武庫川の恩恵がなければ集客は困難であったと思われます。
宝塚観光花火大会
武庫川を舞台に、宝塚の夏の風物詩として毎年5万人以上の観客があった宝塚観光花火大会が中止されて6年経過しました。毎年この時期になると、家族揃って出掛けた花火大会を思い出される方が多いのでは。
宝塚花火大会は、宝塚新温泉の来場者増員策として、大正2年8月に新温泉の正面(武庫川の中州)で行われたのが初回とされています。「美はしい天上の風景!! 宝塚第一回全国煙火大競技会」と称し大阪時事新報社の主催で行われました。明治44年5月に開業した宝塚新温泉は、当初は繁盛していましたが、大正時代に入ると閑散とした状態が続きました。婦人博覧会の開催により盛り返しましたが、終了すると閑散とした状態に戻り、集客挽回策として花火大会が行われたのです。
新温泉夜景(花火大会)
昭和28年頃
花火大会は、住宅開発により、会場が狭まり、安全面から中止せざるを得なくなったのですが、元々宝塚は花火師泣かせの大会であったようです。平成初期のインタビューで、花火師は「武庫川畔には旅館や大劇場の建物があったことから、打ち上げる範囲が狭いため、花火の中でも細工が難しくなる小さな玉(最高3号玉)を選択せざるを得なかった」と述べています。
洪水による災害
武庫川は、宝塚に素晴らしい景観と自然の恵みをもたらしましたが、一方、数多くの災害を引き起こしました。
明治30年9月には、武庫川の洪水により、宝塚温泉(温泉場)の建物が流出しました。掲出されていた「寳塚温泉」の扁額も大阪湾浜寺沖まで漂流しましたが、無事回収でき、現在ホテル若水に保存されています。増水時の流失を防ぐため、温泉場はセットバックして新築され、明治33年に完成しました。下は、洪水直後の写真で、まだ温泉場が新設されておらず、温泉場跡には仮設の温泉場が建てられています。
流出直後の温泉場跡と旅館風景
橋梁については、昭和20年10月の阿久根台風による洪水で千歳橋が流失し、昭和25年9月のジェーン台風で迎宝橋が流失しています。宝来橋は、明治44年8月の大阪朝日新聞に「寳塚にては武庫川増水の為例の蓬莱橋は又々押流され」と記される通り、頻繁に流出していたようです。宝来橋は千歳橋、迎宝橋と異なり、宝塚駅と温泉場を結ぶ大動脈で、代替が効かない橋であったため、その都度再建されました。