創業者ジョン・クリフォード・ウィルキンソンの長女エセル・プライス・ウィルキンソンが、「天然炭酸水の始り」というウィルキンソン・タンサンの創業期について語った資料があります。それはエセルが東京清涼飲料協会の協会25周年にあたり投稿したもので、東京清涼飲料協会発行の「日本清涼飲料史」(1975年発行)に所収されています。ウィルキンソンの創業期については、資料がほとんどない中、創業家一族の筆により、創業者の逝去後間もない時期に書かれた「天然炭酸水の始り」は、数字等細かい部分については誤りがあるかもしれませんが、最も信頼に足る資料であると思われます。
  エセルによる英語による寄稿文を和訳したものか、英会話によるインタビュー内容を和訳したものと思われ、表現、漢字に少し疑問が付く部分があります。


1.当初の炭酸水製造工場とタンサンホテルの場所

エセル・プライスは当初の炭酸水製造工場とタンサンホテルの場所について、下記の通り触れています。
「炭酸水の製造に取りかかったのであります。場所は、旧宝塚鉱泉の「ワキ」で、確か今「ブンドウ屋」と云ふ旅館のある裏手に当ると思ひます。尚ほ亡父は、その側へ「ホテル」を建てて「タンサン ホテル」と命名し、炭酸水の製造と共に兼営して居りました。」
温泉街近辺案内図(ブログ用)私のブログ「紅葉谷時代のウィルキンソン・タンサン工場(作業場)」で、英国の週刊画報雑誌「THE SKETCH」1899年7月12日号における当時の工場(作業場)写真から、その場所が判明しました。工場、タンサンホテル、旅館分銅家(ふんどうや)のそれぞれの場所は、左の地図の通りで、工場(現在の湯本町10-38辺り)、タンサンホテル(現在の武庫山2-4-23コスモヒルズ宝塚武庫山付近)、旅館分銅家(現在の湯本台広場)と想定されますが、エセルの記述内容とも整合していることが分かります。


2.天然鉱泉の発見の経緯と炭酸水製造開始時期
天然鉱泉の発見の経緯は「父が或る日の事、宝塚へ狩猟にまいりました折、ふと天然鉱泉の湧出する処を見出したのですが、其処では其の以前から萩原さんと云ふ方が宝成会社と云ふ「ラムネ」製造会社を経営して居られました。そこで、一応その鉱泉を試験して見ますと、立派な食卓用鉱泉であることが判りましたので、此の宝塚へ移って炭酸水の製造に取りかかったのであります。」と記載しています。
「宝成会社」と記載されていますが、「保生会社」の間違いです。岡田竹四郎・小佐治豊三郎等によって設立され、温泉経営、鉱泉湧出所を経営した保生会社を指していると思われます。萩原とは保生会社の一員で財界の有力者であった萩原吉右衛門と思われますが、この文章から、クリフォード・ウィルキンソンが天然鉱泉を発見した時点で、既に保生会社が「ラムネ」を製造、販売していたと推測されます。昭和14年6月発行の「宝塚温泉之今昔」もほぼ同じ内容が記されており、ウィルキンソンはこの鉱泉を譲り受け、炭酸水事業を開始したと考えられます。

炭酸水の製造開始時期は、「私の亡父クリフォード・ウィルキンソンが此の宝塚へ来て炭酸鉱泉の製造を始めたのは、確か明治22年であったと思う。」とエセルは述べています。「宝塚温泉之今昔」には明治22年にラムネ部の譲渡を受けたとあるため、製造、瓶詰作業を始めたのは翌年の明治23年であったかもしれません。
宝塚温泉の今昔「宝塚温泉之今昔」には、ウィルキンソンの炭酸水事業の草創期について次の通り記載しております。「一方、英人ウヰルキンソン氏は、其の頃、此の地の風光を慕ひ、屡々、狩猟に来宝、岡田武四郎氏等と相知るところとなり、特に炭酸水の天然に湧出して居るのに着目し、之れを洋酒の割水にと、海外輸出を計画し、明治二十二年保生会社より、ラムネ部の譲渡を受け、紅葉谷に工場を設けて、事業を開始した。」
 左は昭和14年6月発行「宝塚温泉之今昔」(牧田安汜著)の表紙
 


3.タンサンホテルの家屋は大正10年頃まで残っていた
タンサンホテル 2タンサンホテルは「お客は勿論外人相手で、その「ホテル」の家屋は大正10年頃まで残って居りました。まだ設備などの充分出来なかった当時のことですから、水は一々荷ひ桶で汲み上げて来て、それを濾して使っていたと云ふ有様です。」タンサンホテルは外国人用日本旅行ガイドのマレーズ・ハンドブックへの広告、本文中のホテル案内から創業は明治23年、廃業は大正5年~8年頃と推測されます。タンサンホテルの建物の一部は、大正12年に生瀬の工場に技師住宅として移築されました。
  タンサンホテルは洋式であったため、また、高額な宿泊料であったため、日本人客はほとんどなかったと思われます。

4.タンサンホテルは炭酸水の宣伝のために外国船のキャプテンを招待した
「神戸の港へ外国の汽船が入りますと、直ぐに船のキャプテンなどを誘って、宝塚のホテルに案内し、鉱泉を見せて炭酸水の宣伝を盛にやって居りました。」とあり、ウィルキンソンは、炭酸水の販売先としては、ホテル、レストラン及び客船をターゲットにしており、その一環で汽船への炭酸水の利用拡大を図るため、キャプテンを積極的に宝塚、タンサンホテルに招待したと思われます。

5.当初の神戸営業所は海岸通32番地にあった
「尚ほ当時の営業所は、神戸弁天浜(居留地2番館)の「ニッケル,ライン商会」の2階においてありました。」と記載されていますが、1897年発行の「日本貿易商案内」には、NativeBund(海岸通)32 C. Nickel & Co. 、J. Clifford Wilkinsonと記載されています。C. Nickel & Co.の後に記載されているため、2階に事務所があったのでしょう。ニッケル社は後にライオンス社と合併し、ニッケル・エンド・ライオンス社(NICKEL&LYONS CO.,LTD.)となります。「ニッケル,ライン」でなく、ニッケル・ライオンスが正解です。弁天浜は現在の神戸駅の南側の地区ですが、海岸通とも接続しているため、エセルの勘違いと思われる。
ウィルキンソンの神戸の拠点は、海岸通りから、その後明治38年に居留地の京町82番地に移りました。

6.生瀬工場への移転
「炭酸水も大に売れて参り、鉱泉の湧出量が不足を来たしましたので当時平野、森田両氏が発見されました現在のナマゼ山下の鉱泉へ明治37年に工場を移転することになりました。」と記載の通り、マニラ等海外への輸出拡大と共に、国内においては、ホテル、レストランへの販売も拡大する一方、宝塚の鉱泉が枯れてきたため、近辺で鉱泉を探索する中、生瀬に優れた鉱泉を探し当てたと思われる。平野、森田両氏とは、平野彰、森田糺と思われ、両氏とも生瀬村の有力者であり、森田糺は生瀬温泉の開発者であったことから、両氏の協力により泉源、工場用地が獲得できたと考えられる。
  森田糺が開発し、旅館を営業した生瀬温泉は、武庫川支流の太多田川と赤子谷川の合流地点付近の不便な場所に立地したため、明治30年~34年頃までのほんの短期間で営業終了し、閉鎖された。「阪鶴鉄道案内」(明治35年10月発行)に生瀬温泉の泉質は含塩炭酸泉と記載されており、宝塚温泉と成分が類似しています。事前に森田糺等との接触により生瀬温泉の泉質情報も入手していたと思われ、その結果、ウィルキンソンは工場移設に当り、宝塚にも近い生瀬を適地としたと思われます。

7.この投稿は昭和2年前後に執筆された
「父は4年前大正13年にこの世を去りました。」と記載されていますが、ジョン・クリフォード・ウィルキンソンは、実際は、1923年(大正12年)4月15日に死去しています。翻訳者の誤りと思われます。