宝来橋は、明治36年発行の宝塚温泉案内(加藤紫芳編)には、「蓬莱橋」と記載されてますが、現在一般的に表示されている「宝来橋」を使用させていただきます。
宝来橋は、明治35年頃に初めて架けられたと言われていますが、不明です。その後、橋は洪水により幾度も流され、架け替えを繰り返しました。初代の宝来橋は、「宝塚温泉案内」によれば、宝塚有志者の醵金で架けられ、武庫川の洪水時等に流されないよう、水の抵抗を抑えるため、普通なら2本の橋杭を中央1本1列とした特色ある構造の橋でした。
古い時代から順を追って、宝来橋の姿をご覧ください。
(初代宝来橋)
明治36年発行の「寳塚温泉案内」の表紙ですが、1本の橋杭の宝来橋が描かれています。初代の宝来橋と考えられます。
(1本の橋杭の宝来橋)

明治38年10月消印の絵葉書写真。
(後の時代の1本橋杭の宝来橋)

「寳塚温泉案内」の表紙そのままの一本杭構造の橋です。
(同時代の宝来橋)
両岸の景観から、明治36年から明治末期の時代と思われます。橋杭の左に以前流された橋のものと想像される杭が見られます。この頃は、橋の構造も弱いため、武庫川の氾濫により度々橋が流されたものと思われます。
(中央部分が1本橋杭で、川岸近くが2本橋杭の宝来橋)

川岸近くは2本杭で、川の中程は1本杭となっています。
武庫川の氾濫で流されないよう橋杭等橋の構造も試行
錯誤を重ねたのでしょう。
(橋杭2本の宝来橋)
橋杭が2本になっており、二代目以降の宝来橋
と思われます。手摺の補強がなされています。
(金属製の宝来橋)
照明も設置され、また、手摺、束柱等も金属製になっています。
(宝来橋が架かる前の宝塚温泉全景)
初代宝来橋が架かる前の宝塚温泉全景と武庫川
宝来橋は、明治35年頃に初めて架けられたと言われていますが、不明です。その後、橋は洪水により幾度も流され、架け替えを繰り返しました。初代の宝来橋は、「宝塚温泉案内」によれば、宝塚有志者の醵金で架けられ、武庫川の洪水時等に流されないよう、水の抵抗を抑えるため、普通なら2本の橋杭を中央1本1列とした特色ある構造の橋でした。
古い時代から順を追って、宝来橋の姿をご覧ください。
(初代宝来橋)

(1本の橋杭の宝来橋)

明治38年10月消印の絵葉書写真。
(後の時代の1本橋杭の宝来橋)

「寳塚温泉案内」の表紙そのままの一本杭構造の橋です。
(同時代の宝来橋)

(中央部分が1本橋杭で、川岸近くが2本橋杭の宝来橋)

川岸近くは2本杭で、川の中程は1本杭となっています。
武庫川の氾濫で流されないよう橋杭等橋の構造も試行
錯誤を重ねたのでしょう。
(橋杭2本の宝来橋)

と思われます。手摺の補強がなされています。
(金属製の宝来橋)

(宝来橋が架かる前の宝塚温泉全景)

コメント
コメント一覧 (3)
現在「宝塚の定点観測」を行い、それをブログに挙げています。
小林・逆瀬川・南口・宝塚大橋と来まして、次は宝塚温泉や宝来橋を挙げる予定ですが、幾つか写真をお借りしたいと思います。
ただの定点観測だけではなく、宝塚温泉の歴史等も付け加えたいからです。
歴史等についての内容は、しごく簡単にする予定です。
ご許可の程、よろしくお願いいたします。
次回の宝塚定点観測は、温泉街になりますが、
どのようにまとめるか、宝来橋のことも一緒に書くか考え中です。