宝塚旧温泉の経営、寿楽荘や宝塚中洲荘園などの住宅地の開発など、小林一三とともに宝塚の発展に貢献した平塚嘉右衛門は、阪急と共同で宝塚ホテルを建設しました。
 宝塚会館は、宝塚ホテルのホテル機能、集客の強化の一環で、武庫川と逆瀬川の合流する砂上の埋立地・中州楽園に、4000坪という広大な土地に30万円と当時としては破格の資金が投入され、建てられました。宝塚ホテルを設計した古塚正治の設計、竹中工務店の施工により、1930年(昭和5年)8月3日オープンしました。谷崎潤一郎も含め阪神間の有名人、財界人等裕福な人々の社交場となりました。しかし、昭和14年経営不振で閉鎖されました。
 戦後は、昭和24年8月まで占領軍に接収。その後、一時、ダンスホールとして、再開されましたが、その後、宝塚映画製作所の資材置き場としての利用の後、解体されました。


ダンスホール宝塚会館宝塚会館全景


         



   宝塚会館チラシ                                          
  
戦後の案内チラシ

 
                           


宝塚会館チラシ地図
宝塚南口からバスの便がありました。



宝塚会館鳥瞰図  2

中央武庫川沿いの円形の建物が宝塚会館の解体前の姿です。                             (昭和44年頃の航空写真)



   



宝塚観光案内図・いちご(昭和25年頃か)逆瀬川と宝塚大橋間の
武庫川沿いの中州温泉貸別荘の隣に「宝塚会館ダンスホール」が案内されています。
 当時、阪急電車では、舞踏券付き割引乗車券を発売、宝塚駅からもバス・タクシーを走らせて、足の確保を図りました。
戦前の宝塚観光協会イラストマップ)




宝塚会館優待券
宝塚会館の優待券。開業後すぐの昭和5年8月発行。
当時は平塚嘉右衛門が社長。





宝塚会館メニュー宝塚会館内にあった宝塚ホテルの運営による宝塚グリルのメニュー。
定食  1円50銭 
ランチ 1円
スペシャルステーキ 1円
コンソメ 30銭 など




宝塚会館 レコード 1
当時の情景を彷彿させる宝塚会館オーケストラ団によるダンスッミュージックのSPレコード。丘を越えて、赤い唇、影を慕いて、嘆きの夜曲を収録。








宝塚会館(昭和29年)昭和29年頃の宝塚会館。
説明には、「東洋一を誇る白亜の殿堂、快適な100坪余のスイングフロアーを有し廊下中央のスタンドに美酒を嗜みつつスウイングとタンゴの二楽団編成で、恍惚とメロディに酔うのも又格別と言えましょう。
入場料 平日150円 土、日曜 200円」
と記載されています。


俳人山口誓子(1901~1994)が昭和6年にダンスホール宝塚会館にて読んだだ俳句が、昭和7年素人社書屋発行の「凍港」に発表されています。当時の華やかなダンスホールの風景・状況が眼に浮かびます。

「毛皮手に夫人の耳は髪に見えず」
「踊子や除夜の淑女を眼に倫む」
「踊りつゝ異國の旗の下の除夜」
「除夜たのしわが踊手は歯をかくさず」
「除夜たのしワルツに青きひかりさす」
「踊子も冷たきものを飲める除夜」
「をとめ等の奏づるジャズに除夜咲まし」
「ジャズ・バンドはしやぎて除夜も深まれる」
「踊子の顔つくろへり年ゆけり」
「歓楽のジャズに年去り年来たる」

参考文献
 「社交ダンスと日本人」永井良和著(晶文社)