川辺郡小浜村川面字大藪にあった寳塚新聞社により昭和4年9月に発行された宝塚案内です。タテ12.5cm×9.5cm。96ページ。
 宝塚には、大正時代に「寳塚案内誌」を著した藤井碧浪のたから新聞社がありますが、この寳塚新聞社の前身かもしれません。

はしがきに、美文で宝塚が紹介されています。
「湯の町ー宝塚は、藤原朝以来霊泉を以って鳴る旧温泉を中心に、各旅館とも効験いみじき泉質の内湯を設へて、四季絶らせぬ湯治客の讃向かえ仰を博しているばかりではありません。歌劇の町、民衆娯楽の地としても関西に冠絶せる名声を壇にしてをります。あの観衆客五千人収容の宝塚大歌劇を始め幾多の娯楽設備は克く整ひ、典雅華麗なる少女歌劇あり、新時代の尖端を行く演劇あり優秀なるキネマあり、動物園あり、運動競技場あり、凡そ大衆の目に楽しみ目に美しく映ずる遊覧と娯楽の完備は殆ど餘さざるなき有様であります。
 これと同時に宝塚はまた行楽清遊の絶好境地としてもしられてをります。その地勢上、土地は高燥であり空気は清澄、山青く水明らけく、風光の明眉と眺望の佳絶なるとは一度当地に足跡を印した人々の異口同音に絶さんして止まざる所であります。そしてこの山紫水明の大自然を背景に青楼旗亭、軒甍を列ねて櫛比し校書の絃歌さんざめいて、湯の街、歌劇の街にまた別趣な歓楽境を展開しているのであります。」

          (表紙)
宝塚乃しほり表紙宝塚乃しほり裏表紙
裏面には、この案内に広告も出しているスポンサーの松凉庵と発行元の寳塚新聞社と価格20銭が記されています。









(宝塚節)
宝塚新聞社が、宝塚の宣伝のため、募り、制定された宝塚節が紹介されています。抜粋してご紹介します。当時の宝塚の情景が思い浮かびます。

「夏は花火の武庫川開らき
        水を五色に染め別ける
 秋は月見の山越へ来れば
        鹿も妻呼ぶ紅葉谷
 寳塚への約束きけば
        わたしや胸まであつうなる
 向は武庫川こなたはかげき
        うたと河鹿の聲と聲
 あいにきたとて武庫川沿いに
        顔を見らるる月見山
 二人こっそり家族ゆすまし
        そっとかぶった甲山」

「他人まじらぬ河なきわたし
        晴れてうれしい月み山
 武庫の川上河鹿の名所
        下の歌劇は日本一
 右は温泉左は歌劇
        月の武庫川鮎がすむ
 河鹿うぐひす山ほととぎす
        寳塚なら寝て聞ける
 皆んなお越しよこの寶塚
        黄金ふくんだ湯を飲ます」


「上に蓬莱下には迎寳
        千歳かわらぬ夫婦橋
 私しや温泉あなたは歌劇
        仲をとりもつ武庫の川
 西は有馬よ東は大阪
        中で榮える寳塚
 千歳橋から温泉見れば
        湯気に巻かれた月が出る」

           (広告)

中に興味深い広告が掲載されていますので、ご紹介します。

宝塚乃しほり清宝自動車
「清宝自動車株式会社」
宝塚と清荒神間の乗合自動車の案内広告。本社・宝塚・栄町。
後に、阪神国道自動車(阪神バスの前身)が買収し、宝塚~清荒神間を運行開始したそうです。








宝塚乃しほり 丸信貨物自動車部 (丸信 貨物自動車部)
    本店 宝塚南口ホテル前。
   大阪-宝塚間定期。










宝塚乃しほり 淡路屋
「淡路屋食堂(生瀬駅構内・阪急宝塚停留所前)」
今も駅弁で有名な淡路屋の広告です。鮎寿司が有名であったようです。








      

宝塚乃しほり 岸田写真館
 (岸田写真館)
 阪神大震災までは、花の道沿い
 に店舗があった老舗・岸田写真館
 の広告です。現在は、山本のあい 
 あいパークの近くに移転されています。







宝塚乃しほり 宝鉱泉
 (宝鑛泉)
宝鉱泉三大製品。スイートメロンの香高きホレタン。オレンヂの果汁からなるビーラ。大衆飲料として声価あるタカラサイダー

宝塚では、明治30年頃から鉱泉の瓶詰め、販売がなされていたようです。。
明治42年3月に設立されている宝塚鉱泉合資会社は、この宝鉱泉の前身と何らかの関係があったかもしれませんね。