大正2年3月発行。藤井碧浪(忠徳)著、たから新聞社発行。定価15銭。タテ18.5cm×ヨコ12.5cm。26ページ。

巻頭に、当時の箕面有馬電気軌道の小林一三の序文が、記載されています。
「六甲の秀嶺、吾孫子の峻峰相対峙して深谿あり、石を噛み岩に激する武庫川の一大清流は徐ろに其碧潭を展べて天空廣濶の域に入るところ、両岸に迫って新旧温泉の二大建造物を目撃すべく、更に聳然たる大廈高楼甍を列べて、山村に偉観を呈せるを睹ん、是れ即ち寳塚なり、一に温泉場としての寳塚は、他に山紫水明の美を以って誇りとなす、知人藤井碧浪子寳塚案内誌なるものを編して余に序を徴す、就て一見するに、内容完備其梗概を知るの便あり、若夫れ東西の旅客此書によって我寳塚の楽天地に親むを得ば其光栄豈に獨り著者碧浪子のみならんや。             辱知  小林一三」

     (表 表紙)        (表紙裏)         (裏 表紙)
宝塚案内誌表紙宝塚案内誌表紙裏能勢電宝塚案内誌裏表紙


本文の一部を紹介させていただきます

(宝塚温泉縁起)
宝塚温泉開湯の謂われ、開湯間もない頃の旅館の状況等が記されています。

 「寳塚塩尾寺の山腹より鉱泉の噴出する由を耳にして逸早く温泉場の計画を為したるは県下川邊郡小濱村の内川面村の住民故田村善作、岡田竹四郎の両氏なりしも資本尽きて間もなく失敗に終りしかば小佐治豊三郎氏は小梅某、小亀某の諸氏と共力して之が再興を為し併せて浴客の便利を計るべく小佐治氏は一旅館を開設したり、是即ち今の分銅家にして時は実に明治十八年なりき、次いで泉山楼の前身辨天楼、栄山楼の前身福柳亭、立美家等旅館の開業するありて漸く京、阪、神の各地より来り入湯する者あるに至れり、去れば前記分銅家を筆頭に二三の旅館が寳塚温泉場の基礎を成したる効蹟は永久に没す可からずとなすべきなり、其後寶来橋南詰なる寳山の開業を見、明治三十一年一月に至りて阪鶴線が大阪より寳塚迄の通路を開き、之に依りて寳塚に吸集する遊客の数は著しく増加し、同年壽楼の大建築竣成して業を始むるに至れり、是れ北岸寳塚嚆矢の旅館として第一に指を屈す、翌年阪鶴線は延長して生瀬に開通し、更に二星想を経て三田に延長し漸次交通機関の便を加へ従って来遊の人士日に多し、
斯の如く分銅家、泉山楼、立美家、栄山楼、壽楼等の各旅館と阪鶴線の開通とに由りて寳塚を維持経営すること拾数年、最近明治四十三年三月に至りて箕有電鉄の開通するや頓に盛況を加へ、旅館料亭の激増物価地価の騰貴は驚くべき高潮を示し、遊客亦跡を絶ず轉た隔世の感に堪へざらしむ、」

(工業界)
工業界として、当時の宝塚の唯一の産業であったと思われる炭酸水製造会社の寳塚礦泉、ウィルキンソン炭酸礦泉が紹介されています。ウィルキンソン炭酸礦泉は、三ツ矢平野水に次ぐ会社と記載されています。

 「由来寳塚の地質炭酸泉に富めるが故に主として之に類する工業会社を占む、即ち寳塚礦泉合資会社(支配人椙原透氏)は、北岸寳塚に在り、たからサイダー、たからフレース等の飲料水を製出し、産額頗る多大なり、更に寳来橋を南に渡り武庫川の南岸に沿うて上ること二丁にして丁壽ケ瀧、見返り岩等宝塚の名勝に達す、尚数丁にして倉庫建亜鉛葺の一大工場を認むるはウヰルキンソン炭酸礦泉株式会社(社長英国人ウヰルキンソン氏)なり、数百名の職工は孜々としてサイダーの製造に従事す、其販路の多くは海外輸出にあり蓋し飲料会社としては彼の三ツ矢平野水に次ぐ大会社なり、」

(言論機関)
この宝塚案内誌発行元であるたから新聞社が紹介されています。
大阪と神戸に支局があったそうです。

「言論機関、としては新聞紙法の命ずる保証金を供託せる新聞紙あり明治四十四年八月より発刊せる週間発行のたから新聞と謂う、本社を北岸寳塚に置き、大阪及び神戸の二大都市に支局を有す、社長は米国文学士法学士坦和三郎氏なり、」
宝塚案内誌郵便局写真
写真で、たから新聞が紹介されています。








(地図)
当時の地図が記載されています。地図には、炭酸会社、〒(宝塚郵便局)、病院(春日病院)が紹介されています。

宝塚案内誌地図全体


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