事業は、John Clifford Wilkinson亡き後は、長女のEthel Grace Wilkinson(1890年生まれ)が引き継ぎました。Ethel Grace Wilkinsonは、1911年にJoseph Herbert Price(1885年生まれ)と結婚しました。クリフォードの後継者とされた夫は32歳の若さで亡くなったため、長男のハーバートに引き継ぐまで、Ethelが事業を取り仕切りました。太平洋戦争中は、子息のHerbert.C.W.Price(1912~1986)は、収容所に入れられ、ミセスプライス(Ethel)本人もそれまで住んでいた屋敷を明け渡さなければならなかったので、工場の脇の住宅に住み、敵国人として不自由な生活を送りました。
戦後は、H.C.W.Priceが母親の事業を引き継ぎましたが、1983年(昭和58年)にアサヒビールに商標、事業を譲渡後、晩年はスイスに移住し、当地で1986年(昭和61年)2月に死亡しました。
Ethel Grace Wilkinsonの文通葉書
下に、John Clifford Wilkinsonの長女Ethel Grace Wilkinsonが海外と交流した絵葉書があります。1906年(明治39年)から1909年(明治42年)の葉書ですが、Ethel Grace Wilkinsonが17歳から21歳の頃の葉書です。下に一部を掲載していますが、これはほんの一部で、頻繁に海外文通を行っていたことが分かります。Ethelは異国の地で、家族以外とは交流は少なかったと思われ、英語で交流が図れ、また、外国への憧れから海外の絵葉書、切手を収集するため、盛んに海外文通を行っていたと思われます。
(Ethelがカナダの仲間に送った絵葉書は最古の宝塚全景写真です)
当時は、旧神戸外国人居留地の京町82番にウィルキンソン・タンサンの事務所がありましたので、上階が住居でEthelを含め家族の住まいとなっていたうように思われます。
(ウィルキンソンン・タンサン専用貨物ヤード・貨物列車の絵葉書をアメリカの友達に)
真ん中の文面は
「絵葉書と交換にAlaska Yukon Pacificのような記念切手(1909に開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会を記念して発行)を送ってください。 Ethel Wilkinson」
(海外からEthelあての葉書)
アメリカのネブラスカの文通相手から神戸のEthel宛の葉書「ミス ウィルキンソン。私はあなたやあなたの友達からの絵葉書が欲しい。」
(その他、Ethelからの、Ethel宛の海外からの3枚の葉書)
Ethelは、このように非常に頻繁に海外と文通していました。
Ethel Grace Wilkinson家族の豪邸が宝塚の逆瀬川にあった
平成に入ってから解体されたような記憶がありますが、逆瀬川駅から徒歩2~3分の中州1丁目にEthel Wilkinson家族の豪邸がありました。小林聖心女子学院本館や東京女子大学礼拝堂などを設計した著名な設計家アントニン・レーモンドの設計で、1962年(昭和37年)に竣工されました。
左の赤の太線に囲まれた区域で、
阪急今津線の逆瀬川駅から北西方向
に2~3分のところで、逆瀬川の傍の
閑静な住宅地にありましたが、今は
コープ宝塚の駐車場になっています。
(塀から見た豪邸の一部)
この豪邸はEthelの子息のH.C.W.Priceの構想に基づきアントナン・レーモンドが設計した屋敷で、プライスJr.は、特に、足の不自由な母親Ethel(竣工時72歳)に快適な住環境を要望したと思われます。
「清流宝塚川(逆瀬川の間違いと思われる)に近く、松林にかこまれた狭い土地が敷地であった。三代昔からこの地の水の良さを求めて企業を始めたアメリカ人である施主は、レーモンドの建築に敬意を表しながら、だからこそ私的な難題を解決しようとあらゆる利便性をとりこんだ。各室ことなる眺めと特徴。個室としての完全性。パーティー等の社交性。設備、機械類の完全なコントロール。屋上と地下室の最高の利用法。地下の完全退避施設。足の不自由な母親のためのエレベーター。花壇に行くための地下道。冬でも水浴できるプール。」(現代日本建築家全集1 アントニン・レーモンド 三一書房発行)
(豪邸のレイアウト)
敷地約450坪。池も配し、地下1階、地上2階、部屋数31、酒倉、女中部屋3室、トイレ3箇所を配した豪邸です。1962年(昭和37年)竣工。
設計したアントナン・レーモンドは、プライスJr.の親友で
あったようで、東京の二子玉川にあった自宅もアントナ
ン・レーモンドが設計しました。アントナン・レーモンドは、
二子玉川の家を訪れ、プライスJr.の話を聞きながら
設計の構想をまとめたようである。
プライスJr.は、母親のために、炭酸のゆかりの地、宝塚
に居を求めたのではないかと思われる。
(参考書類)
・建築知識(1992年1月号 清水慶一著「近代産業建築・ウヰルキンソン氏の不思議な工場」)
・「ウィルキンソンタンサン鉱泉株式会社宝塚工場調査報告書」足立裕司編(西宮市教育委員会発行)
・「A・レーモンドの住宅物語」三沢浩著(建築資料研究社発行)
コメント
コメント一覧 (18)
何故なら 私の お知り合いの 素敵な
お祖母様から 良く H.C. ウィルキンソン プライス さんとの お話を 良く 聞き お部屋の中には 写真が いっぱいあり、夢のような話しを きかして頂き写真の素敵な男性に私も一目見たかったと思った程です。とても 興味ある方です。歴史的話しではなくてすみません…参考にならなくてすみません。
またまた調べ物をしていて、このサイトを発見し、驚いています。
実は亡父公認会計士をしていた塔本基男は神戸の元町通りで、主に外国企業や外国人を中心とした会計事務所に開いていて、戦前からプライス氏と親しく、ウイルキンソン炭酸やバヤリースオレンジ、プライス・メーソン カンパニーの役員をしておりました。その関係もあり宝塚のお屋敷には年始挨拶に毎年のように伺い、エセルさん、メリーさんにお会いしていました。特にメリーさんに娘の小林聖心小学への入学、都内での交流、私のアメリカ駐在、亡父の葬儀では大変お世話になりました。また英国におられる親族のお嬢さんと学生時代、文通もさせて頂きました。アメリカから帰国後逗子に住むようになり、メリーさんとは音信不通となってしまいましたが、いかがされているにか、いつも気になっていました。宝塚のお屋敷はもう無いとのことですが、地下道や地下のワインセラーも懐かしい思い出です。
たまたま見つけた記事でしたので、投稿させて頂きました。
色々な調べ物をしておられますね。
これからも宜しくお願い致します。
+シドッチ神父様の方も宜しくお願い致します。
受験にかまけているうちに気がついたら舗装されコープの駐車場になってしまいましたが、いまだにあれはなんだったのか気になっています。
貴重なお話ありがとうございます。書物によりますと、足の悪い母親が道を隔てたバラ園に車椅子で行けるように公道に地下道を掘って連絡させたそうです。砂利が敷いていたところは、ウィルキンソン一族のプライス邸の向かいにあったバラ園跡かもしれませんね。
都内で建築設計事務所を主宰おります。
阪急電車のローカル線に逆瀬川駅から数分の住宅地に母の実家がございました。
同じく中洲一丁目でした。
私が幼い頃、あの地域は松林 が点在しておりましたが、母の幼い頃は、中洲一丁目から武庫川が見通せるように松林が拡がり、そこに住戸 が点在する田園風景だったと聞いておりました。
そんな中、このお屋敷は独特のデザインで当時とても刺激的でした。1962年竣工とのこと。巨匠アントニン・レーモンド氏の設計とは、後に知ることになりますが、1960年生まれの私にとって、祖父母の家と同じ町内に建つこの建築は、建築を志す私の原風景になったに違いありません。
道の両側にお屋敷があったと記憶しておりましたが、薔薇園だったのですね。
懐かしい思いで拝見させて頂きました。
イギリス在住のクリフォード・ウィルキンソンの曾孫(ハーバート・プライスの姪)さんも、このプライス邸は潰さず、残しておいて欲しかったと話されていました。
誤:朝日ヶ丘の松林=>正:旭が丘の松林
ウィルキンソン邸の跡地に出来たコープ駐車場が写っているHPです。
先頭から3枚目の写真の地図で、交番のマーク(X)が付いているところが
駐車場(ウィルキンソン邸)と思われます。
なお、このHPは昔の逆瀬川駅周辺を知っている人ならば、読み出すと
止まらなくなるのでご注意ください。
https://kabukuwa.fc2.net/blog-entry-1997.html
以上