神戸ポルトガル総領事で日本文化研究家であったヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau de Moraes)が、神戸在住時に度々宝塚を訪れています。

ヴェンセスラウ・デ・モラエス著、岡村多希子訳の(「モラエスの絵葉書書簡」(彩流社)に絵葉書と共に文面が紹介されていますが、下記の絵葉書は、モラエスが、明治
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年にポルトガルの家族に送った絵葉書と同じものです。絵葉書に記載されていた文面(「モラエスの絵葉書書簡」より引用)もご紹介します。2点紹介していますが、モラエスは、よく宝塚を訪れ、宝塚の絵葉書を家族に数多く送っています。見返り岩にも出掛けています。

松涼庵(モラエス)治41年6月27日
「昨日の日曜日は雨だったが、また、宝塚に行った。家でうんざりした一日を過ごしたくなかったのだ。ぼくが昼食をとった日本旅館の写真と旅館の玄関の絵葉書(宝塚旅館の松凉庵)とを送るよ。ぼくがいた離れ座敷は、左手の、木々のほとんど陰になっているいちばん高い小さな屋根のところだ。 ゼによろしく。さようなら」
(絵葉書は、武庫川に面した旅館「松凉庵」の写真です)


丁子ケ瀧(モラエス)明治41年11月19日
「お前に話したことのある宝塚(宝塚丁子ヶ滝)の風景だ。ここはぼくは度々行っている。 (後略) 」

(絵葉書は、摂津寳塚丁子ヶ瀧の写真です)









ヴェンセスラウ・デ・モラエス Wenceslau José de Sousa de Moraes)の経歴

1854年にポルトガルのリスボンに生まれ、海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官として奉職。1889年に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となった

 神戸在勤中に芸者おヨネ(本名は福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになる。1912年にヨネが死没すると、13年に職を辞し引退。ヨネの故郷である徳島市に移住した。1929年、徳島市で孤独に没した。

モラエスは、ポルトガルの新聞に日本を紹介するとともに、日本に関する作品を数多く残しました。著書に『おヨネとコハル』、『日本精神』、『ポルトガルの友へ』、『徳島日記』があります