クリフォード・ウィルキンソンは、明治22年頃狩猟の途中に立ち寄った宝塚で良質の炭酸泉に出合い、塩谷川沿いの紅葉谷に瓶詰工場を設け販売を開始しました。その後販売が急増し、また、宝塚の温泉場の敷地内にあった炭酸泉源が枯れてきたこともあり、生瀬への工場移転を計画し、明治37年に工場が完成し、移転しました。
鉱泉水は、「ウィルキンソン タンサン」と名づけ、国内はもとより海外にも販路を広げました。その後、アサヒビールがウィルキンソンの商標権を取得し、生瀬工場閉鎖後、現在は、アサヒビールの子会社のアサヒ飲料株式会社が、自社工場にて生産し、販売しています。
工場は、平成7年10月に解体され、今は、マンション群に変わっています。
(宝塚見返り岩あたりから見たウィルキンソン・タンサン生瀬工場)
炭酸水の販売が国内外に増加する一方、宝塚温泉場泉源傍の炭酸源泉の湧出量が不足してきたので、工場を紅葉谷から生瀬に移転しました。
ウィルキンソンが、生瀬に工場を作ったのは、背後の生瀬山から、炭酸ガスを多量に含んだ鉱泉水脈が通り、豊かな鉱泉水が湧き出ていたからです。
(ウィルキンソン・タンサン生瀬工場全景)
右下の写真は、まだ、武庫川が護岸されていないので、最も古い写真と思われます。
洋風の工場と周囲の自然環境がマッチし、素晴らしい眺望を作り上げています。
(生瀬工場の正面看板の「ESTABLISHED」(設立)の年次は当初1892年でしたが、解体時は1890年に変わっています)
(解体時)
解体時の工場は左の画像の通り、「ESTABLISHED」年次は1890年(明治23年)です。
(工場完成後間もない頃)
右はESTABLISHED部分を拡大した
画像です。分かりにくいですが、
1892年(明治25年)と塗装。
(工場内瓶詰作業)
上記工場建物内でのタンサン瓶詰作業状況。
(包装・荷造り作業)
(ラベル貼り作業)
(洗瓶作業))
タンサン瓶の洗浄風景。
(工場内源泉湧水口)
ここから流れ出た鉱泉水を濾過して、精製されました。
(宝塚駅と生瀬駅の間にあった惣川駅タンサン専用貨物ヤード)
かつて宝塚駅と生瀬駅の間に惣川駅という貨物扱いを主とした駅がありました。この駅は、ウィルキンソンの炭酸水輸送専用に明治37年に仮設で設けられましたが(日本鉄道史)、大正2年に本設となり、旅客も扱うようになりました。昭和38年に宝塚駅の構内に組み込まれ、昭和54年に廃駅になりました。
「仁王印のタンサンラベル」
鉱泉水は、「ウィルキンソン タンサン」と名づけ、国内はもとより海外にも販路を広げました。その後、アサヒビールがウィルキンソンの商標権を取得し、生瀬工場閉鎖後、現在は、アサヒビールの子会社のアサヒ飲料株式会社が、自社工場にて生産し、販売しています。
工場は、平成7年10月に解体され、今は、マンション群に変わっています。
(宝塚見返り岩あたりから見たウィルキンソン・タンサン生瀬工場)
炭酸水の販売が国内外に増加する一方、宝塚温泉場泉源傍の炭酸源泉の湧出量が不足してきたので、工場を紅葉谷から生瀬に移転しました。
ウィルキンソンが、生瀬に工場を作ったのは、背後の生瀬山から、炭酸ガスを多量に含んだ鉱泉水脈が通り、豊かな鉱泉水が湧き出ていたからです。
(ウィルキンソン・タンサン生瀬工場全景)
右下の写真は、まだ、武庫川が護岸されていないので、最も古い写真と思われます。
洋風の工場と周囲の自然環境がマッチし、素晴らしい眺望を作り上げています。
(生瀬工場の正面看板の「ESTABLISHED」(設立)の年次は当初1892年でしたが、解体時は1890年に変わっています)
(解体時)
解体時の工場は左の画像の通り、「ESTABLISHED」年次は1890年(明治23年)です。
(工場完成後間もない頃)
右はESTABLISHED部分を拡大した
画像です。分かりにくいですが、
1892年(明治25年)と塗装。
(工場内瓶詰作業)
上記工場建物内でのタンサン瓶詰作業状況。
(包装・荷造り作業)
(ラベル貼り作業)
(洗瓶作業))
タンサン瓶の洗浄風景。
(工場内源泉湧水口)
ここから流れ出た鉱泉水を濾過して、精製されました。
(宝塚駅と生瀬駅の間にあった惣川駅タンサン専用貨物ヤード)
かつて宝塚駅と生瀬駅の間に惣川駅という貨物扱いを主とした駅がありました。この駅は、ウィルキンソンの炭酸水輸送専用に明治37年に仮設で設けられましたが(日本鉄道史)、大正2年に本設となり、旅客も扱うようになりました。昭和38年に宝塚駅の構内に組み込まれ、昭和54年に廃駅になりました。
「仁王印のタンサンラベル」
コメント
コメント一覧 (14)
今は工場がなくなって,様子が全く変わってしまったようですね。
コメントありがとうございます。
ウィルキンソンタンサン工場の建物は素晴らしかったですね。
景観のポイントとなっていました。
ウィルキンソンの別荘はどこにあったのですか。また、建物は現存しないのでしょうね。
とても素敵な建物でした。
懐かしいです。
マンション計画が始まったころは、反対運動で大騒ぎでしたが、いまは落ち着いています。
大きなマンション(反対運動の結果、当初の計画よりは低い建物になりましたが)なので、幼稚園や学校は急激な子どもの数の増加に対応するのが大変でした。
いまだに人数的には最大勢力です。
是非シェアさせていただきたくよろしくお願い申し上げます。
工場南側に白い2階建ての異人館があったのが印象的でした。
同じ源泉だと思いますが、宝塚のゆずりは台に宮水として出ているところはありますが、個人の所有になっているのではないでしょうか。
やっぱりどこまで行っても日本は何かにつけてアメリカを追い越すことは出来ませんね。