ウィスコンシン大学スタウト校(The University of Wisconsin-Stout)の地域アーカイブセンター(University Archives and Area Research Center)に掲載されていたHenry E. Knapp(ヘンリー・クナップ、1851年~1932年)というアメリカ人の明治36年の日記に、彼が宝塚を訪れ、タンサンホテルからタンサン工場に出向いたことが綴られています。

 ヘンリー・クナップの父は
John H. Knapp(ジョン・クナップ、1825年~1888年)といい、アメリカの材木会社のコンツェルンKnapp, Stout and Lumber Co.の創業者であり、大富豪であった。Knapp, Stout and Lumber Co.は広大な森林地を有し、一時は世界最大の材木会社と評された。  父ジョン・クナップは富もあり、海外旅行に頻繁に出掛けた。
 子息ヘンリーは父親の海外旅行に度々同行したが、日本への旅は父親の死後、ヘンリー52歳の頃であった。明治36年3月28日に横浜に到着し、途中約1か月間(4/27~5/30まで)は韓国、香港、上海等に出国したが、12月15日に長崎から上海に出発するまで、約8カ月間の長期にわたり、京都、横浜、宮ノ下、日光、伊香保、静岡等日本各地を旅した。
 その途中の10月3日に京都から宝塚に向かい、タンサンホテル及びウィルキンソン・タンサン工場を訪問しました。工場は明治36年の時点では、まだ生瀬に移転していないので、紅葉谷工場であると考えられます。日記から推測すると、クリフォード・ウィルキンソンの名前も出てくるように、ウィルキンソンからの要請により、宝塚に出向いたようである。 

John Holly Knapp  写真
父 John H, Knapp  


Knapp Stout 会社写真

John H, Knappが創業した世界最大の材木会社
であったKnapp, Stout and Lumber Co.本社

  


Henry E. Knapp(ヘンリー・クナップ)の宝塚滞在日記
タンサンホテル、炭酸水の瓶詰工場に伺ったこと、また、宝塚はひじょうに小さな町で、旅館と炭酸水、仁王水の瓶詰め工場で成り立っていると記載されています。

1903年(明治36年)10月2日(金)京都

私は、京都駅午前8時30分発の宝塚行きの列車に乗るため(当時は東海道本線京都駅から今の福知山線(当時は阪鶴鉄道)直通列車がありました。)、7時20分に朝食を食べて、7時50分にホテルを出発しました。しかし、列車が9時まで出発しなかったので、 10時35分宝塚到着の予定が11時になった。
 タンサンホテルまで歩いて、そして、そこからタンサン水および仁王水の瓶詰め工場をホテルの従業員に案内されました。6本の仁王水をもらい、駅までクーリーに10銭で運ばせた。タンサンホテルに戻り、トーストとホットミルク(25銭)を食べた。
 半時間遅れの午後1時30分に宝塚を出発した。(運賃は、片道1円24銭。人力車は片道
35銭、往復70銭。)
 宝塚はひじょうに小さな町で、ほとんど、旅館と炭酸水、仁王水の瓶詰め工場で成り立っている。炭酸水は、昨年800万本生産された。仁王水は、新製品で、まだ、生産開始したばかりである。は、川の南側、堤防に沿って近接した山の側面にあります。規模が大きく、たくさんの素晴らしい旅館群と洋式のホテル
1軒(タンサンホテル)があります。
 宝塚を午後1時30分に出発して、大阪で乗り換えて、午後3時45分に京都駅に到着した。人力車で、ジェシーの肩掛け修理するためにカバンを預けた店へ途中寄った後、ホテルに帰った。午後6時頃冷たい北風がひじょうに威勢よく、吹き始めた。そのため、すべてのドアを閉じて、今まで食事していたバルコニーから食堂に移り夕食を取らざるを得なかった。今日一日は、曇りがちで何度か雨が降った。ジェシーは
Mrs.W.C.Mcleanおばさんに、ずっと手紙を書いていた。私は、COOKへ移動場所を連絡するため、デイブとマーク・ハンソンに葉書を出しました。


10月3日(土)京都

 昨夜は、すごく寒かったので、起きて、懐炉(日本式ハンドストーブ)に火を付けて、背中に置いた。午前6時30分に起き、一本の平野水(主に外国人用に販売された兵庫県川西市の平野鉱泉の炭酸水でウィルキンソン・タンサンの競合品であった)を飲んだ後、入浴した。銀行勘定(NW Harris & Co)を確認し、返事を出した。仁王水について、J. クリフォード・ウィルキンソンに手紙を書いた。平野水について神戸の H. Reynell & Co.(エイチ・レーネル社)に手紙を書いた。ジェシーは、Carrie Bullardに手紙を書いた。午後2時30分頃、我々は、都ホテルの浜口支配人と一緒に紅谷(べにや)氏の家を訪れるために、外出しました。

 
(原文)
Friday 2 Oct Kyoto.
I breakfasted at 7.20 & left hotel 7.50 for Takaradzuka by train from main sta-tion which should have left at 8.30 but did not go until 9. Arr T- 11 AM instead of 10.35. Walked to Tansan Hotel & from there was shown the Tansan Spring & Nirvo Spring & bottling works by one of the hotel mesanes 25. Got 6 Bts Nirvo & had coolie take to Station 10 sen. Retd Tausau Hotel & had Toast & Hot Milk 25. Train ½ hour late 1.30 PM. Fare each way Y1.24. Rickisha 35 & 35. Takardzuka is a very small place & apparently made up entirely of hotels and the Bottling Works of Tansan & Nirvo. Of Tansan the Pro-duct last year was 8.000.000 bottles. Nirvo is new & hardly yet started. The town is on south side of river & close along its bank & on the side of the mountain which comes right to the river. There are a number of fine looking Japanese hotels of considerable size and one hotel – the Tansan – in foreign style. Leaving Takaradzuka at 1.30 I changed cars at Osaka & arrived in Kyoto about 3.45 & took rickisha to hotel passing on the way the shop where I had left Jessies satchel to be repd 25 sen. About 6 PM a cold north wind began to blow quite brisk & it was necessary to close most all the doors & to have dinner in the Dining Room instead of on balcony as heretofore. The day was cloudy & threatening with several showers. J. wrote Mrs. W.C. McLearn Aunt Till. I wrote P.C. to Dave & Mark Hanson to change address to Cook.

Sat 3 Oct 03 Kyoto.
Last night was quite cold & I had to get up & light my Koro (Jap Hand Stove) & place it at my back. Up 6.30 & bath after drinking a bottle of Hirano. Checked Bank a/c (NW Harris & Co) & mailed reply. Wrote J. Clifford Wilkinson about Nirvo Water. Wrote H. Reyinall & Co. Kobe about Hirano. J wrote Carrie Bullard. About 2 ½ PM we went with Mr. Harna-guchi Manager of Miyako Hotel to visit the residence of Mr. Beniya. 

 [出典:「Knapp Diaries」University Archives and Area Research Center(The University of Wisconsin-Stout)]