毎年8月1日、2日の両日宝塚大橋と宝来橋間の武庫川畔で開催されている花火大会は大正2年から続いている歴史日本有数の歴史ある花火大会です。但し、戦前の昭和15年から戦後23年までは中止されていたそうです。
花火大会の名称は、当初は「宝塚花火大会」でしたが、昭和37年に「宝塚豪華花火大会」になり、この名称は平成6年まで続きましたが、阪神・淡路大震災の起きた平成7年の花火大会から「宝塚観光花火大会」に改称しました。
(新温泉納涼台)
花火大会は箕面有馬電気軌道が明治44年に開業した新温泉の集客策の一環で開催したと思われます。花火は新温泉の納涼台の前面の川中から打ち上げられました。
(昭和6年8月14日・15日開催宝塚花火大会プログラム)
表紙には、下記の通り記載。
「八月十四日・十五日両夕(雨天順延・仕掛花火は八時より)
豪華艶麗断然他の追従を許さぬ
寳塚名物 寳塚花火大会
大阪、阿波、伏見各地競演逸品揃い
堂々二百間に亘る空前の大仕掛花火特設
於寳塚新温泉裏手武庫川原
打上花火数百発 花火終了後電車増発運転」
(花火師村松栄の談話) 「たからづか物語より」
宝塚はほんとに花火師泣かせのところなんです。
武庫川畔両岸に建物が迫っているので、花火師には宝塚花火大会はご苦労があるそうです。
「武庫川畔には旅館や大劇場の建物があったりして、打ち上げる範囲が狭すぎるんですね。宝塚では、3号玉(直径9センチ)という大きさのものをあげているんですけど、花火の種類の中では随分小さい方なんです。玉が小さくなればなるほど中を細工するのが難しいですよね。だから、形物花火とか変わったものはあんまりたくさんは出せない。それに、3号玉でも上空140メートルくらい上がるんで、流れるものや垂れ下がるようなものだと、街ん中へ入ると危険だから使えないでしょう。ともかく、打ち上げる花火自体に制約が随分あってえらいですよ。」
(参考文献)
宝塚市大事典 (平成17年 宝塚市発行)
たからづか物語 (平成6年 宝塚市発行)
花火大会の名称は、当初は「宝塚花火大会」でしたが、昭和37年に「宝塚豪華花火大会」になり、この名称は平成6年まで続きましたが、阪神・淡路大震災の起きた平成7年の花火大会から「宝塚観光花火大会」に改称しました。
(新温泉納涼台)
花火大会は箕面有馬電気軌道が明治44年に開業した新温泉の集客策の一環で開催したと思われます。花火は新温泉の納涼台の前面の川中から打ち上げられました。
(昭和6年8月14日・15日開催宝塚花火大会プログラム)
表紙には、下記の通り記載。
「八月十四日・十五日両夕(雨天順延・仕掛花火は八時より)
豪華艶麗断然他の追従を許さぬ
寳塚名物 寳塚花火大会
大阪、阿波、伏見各地競演逸品揃い
堂々二百間に亘る空前の大仕掛花火特設
於寳塚新温泉裏手武庫川原
打上花火数百発 花火終了後電車増発運転」
(花火師村松栄の談話) 「たからづか物語より」
宝塚はほんとに花火師泣かせのところなんです。
武庫川畔両岸に建物が迫っているので、花火師には宝塚花火大会はご苦労があるそうです。
「武庫川畔には旅館や大劇場の建物があったりして、打ち上げる範囲が狭すぎるんですね。宝塚では、3号玉(直径9センチ)という大きさのものをあげているんですけど、花火の種類の中では随分小さい方なんです。玉が小さくなればなるほど中を細工するのが難しいですよね。だから、形物花火とか変わったものはあんまりたくさんは出せない。それに、3号玉でも上空140メートルくらい上がるんで、流れるものや垂れ下がるようなものだと、街ん中へ入ると危険だから使えないでしょう。ともかく、打ち上げる花火自体に制約が随分あってえらいですよ。」
(参考文献)
宝塚市大事典 (平成17年 宝塚市発行)
たからづか物語 (平成6年 宝塚市発行)
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