英国の週刊画報雑誌「THE SKETCH」の1899年(明治32年)7月12日号に当時のウィルキンソン・タンサン工場(作業場)の写真及び記事が掲載されています。生瀬のウィルキンソン・タンサン製造工場は明治37年に完成しましたので、この写真は生瀬に移る前の紅葉谷時代の工場(作業場)と考えられます。紅葉谷とは、塩谷川(宝来橋下手で武庫川に合流)沿いで、塩尾寺参詣道沿いの区域をいいます。

The Straits 全紙
(「THE SKETCH」の1899年(明治32年)7月12日号)
明治時代の宝塚及びウィルキンソン・タンサン関係の写真及び記事が掲載されています。





下は、「THE SKETCH」の下段掲載写真です。
The Straits 写真 タンサン工場
荷車には、TANSANと書かれた木箱が積まれ、建物に続く坂道には従業員が並んでいます。正面の荷車を曳いている洋服の人物はウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンです。下の注釈には、「どのようにして日本人はミネラルウォーターの瓶詰を開始したか。」(HOW THE JAPS HAVE STARTED BOTTLING MINERAL-WATERS)と記載されています。



(紅葉谷時代の作業場の位置)
The Straits 写真 タンサン工場区域大
The Straits 写真 タンサン工場区域小右の写真は赤線で囲まれた建物の拡大ですが、右側建物の正面には、SKETCHの建物写真の玄関ポーチがはっきり確認できます。
 
この絵葉書により、紅葉谷作業場は、現在、湯本町10の元毎日新聞健康保険組合宝塚荘(ライオンズマンション宝塚の向い)の場所にあったと判明しました。タンサンホテルは、この作業場の後方(絵葉書の右上)の高台に位置しており、徒歩2~3分の便利な場所にあります。


(「THE SKETCH」に掲載されていたもう1枚の「宝塚全景」写真)
武庫川下流から生瀬方面への写真と思われます。
後のウィルキンソン・タンサンの生瀬工場付近に焦点を当てているように見えます。

The Straits 写真 宝塚全景

「THE SKETCH」には写真とともに宝塚及びタンサンに関する記事が記載されています。私の拙い訳ですが、ご紹介します。英文も添付させていただきました。
外人向けに、宝塚という地名が”Tansania”に変更されたと記載されています。クリフォード・ウィルキンソンの発想であると思いますが、Tansaniaはその後の資料で見当たりませんので、普及しなかったものと思われます。

(THE SKETCHの記事)
 「今回、私は名高いタンサン・ウォーターが発見された場所付近にある温泉保養地の2枚の写真を掲載した。宝塚は本来の地名ですが、口調が良くて、また、外人が言葉使いにおいて過ちを犯しそうにない”Tansania(タンサニア?)”という地名に変更されています。ここは、丘の上に療養所があり、その下には 塩分や鉄分及び発泡性を有する 温泉場があります。リウマチや消化器の障害で苦しむ人々の多くが、この鉱泉水に浸かり、治癒しています。この地域は、保養地として魅力的なだけでなく、自然美のみで多くの人々を引き付ける魅力を持っています。日本全国の外国人には自然の炭酸ガスを含んだ「タンサン・ウォーター」(天然鉱泉水を瓶詰したもの)が、「ソーダ水」(人工的に炭酸ガスを詰めたもの)よりも、よく飲まれています。その水は、最も近い貿易港の神戸に荷車で運ばれます。”Tansania(タンサニア?)”から神戸までは起伏の多い道のりで、18マイルあります。運送方法は、先頭に去勢牛が、後ろに人間がつく荷牛車で、時間がかかります。


※ 「THE SKETCH 」は、上層階級や貴族に焦点を当てた英国の週刊画報で1893年(明治26年)2月から1959年(昭和34年)6月まで、2,989部発行されました。左は当時より後の明治30年代後半の宝塚温泉の全景絵葉書ですが、「THE SKETCH」の写真と同一建物を見つけました。赤の線で囲んだ建物です。
上の「THE SKETCH」の写真の建物と同様に2棟が並び、正面左の建物が前面に出ており、また、右の建物正面中央部にはポーチが見られます。