手塚治虫が宝塚市の出身で、宝塚歌劇の熱狂的なファンであったことは有名な話ですが、大阪帝国大学医学専門部在学中に宝塚歌劇のファン機関紙「寳塚(宝塚)ふあん」(1946年8月号・9月号)に漫画・カットを投稿していました。 手塚治虫は、1946年1月1日号の少国民新聞における4コマ漫画「マアチャンの日記帳」で漫画家としてデビューしましたので、デビュー間もない時期の作品になります。

   (投稿していた宝塚歌劇ファンの機関紙「寳塚ふあん」創刊号)
宝塚ふあん1

「寳塚(宝塚)ふあん」は戦後すぐに宝塚歌劇を愛好・支援するために発足した「全國寳塚會」の機関紙で、創刊号は1946年5月に発行されています。「全國寳塚會」は3千人の会員数を擁し、当初、宝塚歌劇団の引田一郎理事長が会長に就任されていました。










(寳塚ふあんに掲載された手塚治虫の漫画)
宝塚ふあん第5号漫画1

宝塚大劇場は進駐軍による接収が昭和21年2月3日に解除され、昭和21年4月に公演が再開されました。
もうその時期から多くのファンが楽屋口に押しかけていたのですね。







宝塚ふあん第5号漫画2
戦後すぐのこの当時、サザエさんの髪型と同様のカットが流行していたようです。










(昭和21年9月発行「寳塚ふあん」第五号目次)   (8月発行第四号目次)
宝塚ふあん第5号目次宝塚ふあん第4号目次
四月号には、目次に「カット 手塚治虫」と記載。

五月号には、目次の最後に「漫画・カット 手塚治虫」と記載。








 (寳塚ふあん第五号)     (寳塚ふあん第四号)
宝塚ふあん第5号表紙宝塚ふあん第4号表紙

表紙も手塚治虫が装丁したと思われます。













          (手塚治虫によるカット)
宝塚ふあん第4号イラスト2宝塚ふあん第4号イラスト1宝塚ふあん第4号イラスト3
昆虫のカットはオサムシのようです。












 中野晴行著の「手塚治虫のタカラヅカ」には、下記の通り、手塚治虫が友人と宝塚歌劇の練習生との交流会に出かけたことが記載されています。そして、その集いが全国宝塚会であったであろうと記されています。

 『宝塚歌劇の練習生との交流会があって、そこに手塚君と一緒に出かけたことがある。でも僕たちは宝塚に興味はなかったし、それに大勢の女性の前で小さくなってしまっていた。話すこともできず「おい、手塚。早く帰ろうや」なんて言っていた。
 ところが、彼は嬉々として練習生たちと話に花を咲かせている。こちらが何を言っても動こうとしない。仕方がないから、僕たちは退屈しながら待つばかりだったよ。
  「全国宝塚会」というのが、その会であろう。興味がなかった、と言っている工藤が治をおいて大劇場へ行っているのもおもしろい。』

また、手塚治虫の昭和21年7月6日の日記に、下記の通り「全国宝塚会」の会誌について触れている箇所があります。「寳塚ふあん」に漫画のカットを担当している関係で、「全国宝塚会」の編集会議に参加することもあったのでしょう。
『7月6日(土)
今日こそは一日尻をすえて漫画に専念しようと思っていたら、十時頃今井兄弟が来て昼までねばり、昼から園田まで「全国宝塚会」の会誌編集のお相伴で、帰ったら八時半で、さらに小山内がきて十二時まで話し込んで、ついに泊まることとなった。社交家たる、また辛いかな! しかし、小山内のくれたケーキを食って、どうにかこうにか気をよくした。』

 「手塚治虫のタカラヅカ」中野晴行著(1994年筑摩書房発行)より