イギリス人のジョセフ・トーマス(Joseph Llewelyn Thomas)は、イギリス・ウェールズの新聞「Western Mail」から委嘱された新聞取材によりアメリカを旅している時、不図この機会に「日出ずる国」日本を見てみたいという生涯の望みを叶えようと思いつき、1895年(明治28年)6月3日にカナダのバンクーバーから汽船「The Empress of India号」に乗船し、日本に向け出発した。横浜から、鎌倉、江の島、箱根、東京、日光、神戸、大阪、京都、有馬、宝塚、奈良、須磨・明石、姫路、岡山、広島、四国(松山他)等北海道、東北、九州地方を除く日本各地を1895年(明治28年)の夏の間に旅行した。ジョセフ・トーマスのこの日本紀行記「JOURNEYS AMONG THE GENTLE JAPS」は、1897年にロンドンのSAMPSON LOW, MARSTON & COMPANY社より出版されました。
 ジョセフ・トーマスは、当時、欧米から日本への旅行客の多くが活用したマレーズ・ハンドブック( HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN)をテキストとして、日本全国を回っています。甲山がビスマルク・ヒルと呼ばれていること等の記載から、マレーズ・ハンドブック第4版(1894年発行)を日本旅行のガイドブックとしたようです。マレーズ・ハンドブック第4版の広告ページには、ウイルキンソン・タンサンとともにホテルの案内が掲載されています。

 ジョセフ・トーマスは有馬から宝塚にも足を伸ばし、宝塚ではウィルキンソン・タンサンの創立者クリフォード・ウィルキンソンにより開発・運営されていたタンサン・ホテルに宿泊し、その際のホテルの印象もこの著書に記載されています。興味深い記述も見受けられます。
 
(タンサン・ホテルとは)
河合教授とクリフォード・ウィルキンソン(切り抜き版) クリフォード・ウィルキンソンは、タンサン水の欧米への輸出を拡大する方策として、欧米の商社、取引先や要人を積極的に工場見学(当初は紅葉谷、後に生瀬に移転)に誘致し、宝塚の環境を含め、タンサン水の素晴らしさをアピールしました。その基地、接待場所及び宿泊施設として、旅館分銅家(現湯本台広場付近)の西奥の裏山にタンサン・ホテルを建て、運営しました。タンサン・ホテルはクリフォード・ウイルキンソンが事業を開始したタンサンホテル 1と思われる明治22、23年頃に創業し、大正時代中期に廃業したものと思われます。(写真左上:ホテル前の庭園(クリフォード・ウィルキンソンはJCWの人物))、左下:ホテル全景、右下:ホテル従業員)
タンサンホテル 従業員







(ジョセフ・トーマスの宝塚・タンサンホテルの印象)
ジョセフ・トーマスは、「JOURNEYS AMONG THE GENTLE JAPS」の中で宝塚及びタンサンホテルについて下記の通り印象を語っています。
  太字部分がタンサンホテルについての記載ですが、畳とメイドさんのみ日本製・日本人と記されているので、その他のホテルの内装、家具、食器、消耗品はすべて洋風、外国製だったと思われます。クリフォード・ウィルキンソンが欧米人の要人が宿泊するに相応しいホテルを作り上げるため、神戸居留地在住外国人向けの商店等から家具・備品・消耗品等を調達したと予想されます。メイドさんについては、上の写真の通り日本人が従事していました。ホテルについては、設備も整い、眺望も良く、また、朝食も美味しかったと記載されており、高水準な洋風ホテルであったと思われます。当時の日本ではトップクラスの洋風ホテルであったと思われます。

                 
 (原文訳) 
(Joseph Thomas写真)   私は昼食の後、約8マイル離れた宝塚に向け出発した。日本人娘が、道を間違えThomas写真ないよう、1マイルほど村のはずれまで私を先導してくれた。雨は旅行中、しばらく降らないでいる。道は状態が良かったが、武庫川の谷に下りる道はジグザグ道であった。景観は、まったく未開のままで、岩は日本でこれまで見た中で、最も火山性の岩であった。私は2~3の村を通り抜けたが、何れも人力車を利用することを勧められた。だから、そのルートを歩いているヨーロッパ人はいません。
 宝塚では、この上なく快適で申し分のない洋式ホテルを見つけ出した。ホテルは、マット(畳)とメイドを除いて日本製のものは何もなかった。廊下、食堂の軒下に作られた燕の巣もまた日本製に付け加えるべきかもしれません。燕は自由に、頻繁に巣を行き来していた。このホテルは見事に設備の整ったホテルで、現状よりもっと多くのお客様を得るに相応しいホテルであThomas本表紙る。お客は私ただ一人であるのに気付きました。また、宿泊者名簿に記載されている宿泊者名も多くなかった。このホテルは週末の休暇のために来る神戸在住者が主な顧客であるようだ。ホテルの立地は大変快適な場所で、ベランダから武庫川流域への眺めは素晴らしい。
  ホテルの近くには評判の高い温泉場がいくつかあります。村は、有馬よりもっと小さいが、有馬ほど山に囲まれてはいない。近くには、神戸の外国人住民から「ビスマルク ヒル」と呼ばれている丘があります。その丘には頂上に4本の木があり、偉大な前首相が頭に4本の毛が生えていることから、そう呼ばれている。丘の輪郭もまた、ビスマルクの頭の上部に似ている。
 翌日、おいしい英国式朝食の後、約2時間で東海道線の西宮駅に到着しなければ汽車の出発に間に合わないために、直ちに旅行を再開した。


(原文は下記の通りです)

「At Takarazuka I found a thoroughly English hotel, as comfortable as could be desired. There was nothing Japanese about it, except the mats and the maids. Perhaps I ought to add the swallows' nests, which clung to the cornices in the corridors and even in the dining-room, and to which their owners had free and unrestricted access. It was an admirably appointed hotel, and deserved a much larger patronage than it seemed to get. I found myself the only guest, and there were not many names in the visitors' book. It seemed to be patronised chiefly by Kobe residents, who went there for a week-end holiday. The sistuation of the hotel is very pleasant, the view of the valley of the Mukogawa from the verandah being charming. Near the hotel are some mineral baths, which are held in great repute. The village is much smaller than Arima, but is not so much hemmed in by mountains. In the neighbourhood is a hill, called by the foreign residents of Kobe "Bismarck Hill,"  from the resemblance of the four trees which are seen on its summit to the four hairs which the great ex-Chancellor is said to have on the top of his head. The outline also of the hill suggests the upper part of the Bismarck's crenium.
 On the morrow, immediately after a good English breakfast, I resumed my  journey, arriving in about two hours at Nishinomiya, on the Tokaido Rilway. The road passed through a stream with the usual wide bed, through which I had to wade, there being no bridge. In the village I met a crowd of the gakko(school), each carrying a little umbrella and a satchel, and looking for all the world as if they had just "jumped off a fan." There was the usual gentle chorus of "Ohayos!" and much curious, but never offensive, gazing at the strange-looking foreigner. Japanese children are never rude  - they are a model to little English barbarians as regards behaviours.」
 (Joseph Llewelyn Thomas著 「Journeys Among The Gentle Japs in The Summer Of Japan」 1897年 SAMPSON  LOW, MARSTON & COMPANY社発行