迎宝(寳)橋は、明治43年3月に宝(寳)来橋の武庫川下流に架設されました。当時は、まだ宝塚大橋は架設されていませんので、武庫川両岸の連絡は宝来橋1本のみでした。迎宝橋架設の最大の要因としては、小林一三により宝塚新温泉が明治44年5月1日開場した結果、新温泉利用客のために名所塩尾寺・宝梅園方面への観光ルート及び旧温泉への利便性確保が必要になったためだと考えられます。
  迎宝橋は度々水害で流されましたが、昭和25年9月に襲来したジェーン台風により流出した後は、宝塚新橋(架け替えられた現宝塚大橋が二代目)が架けられていたこともあり、再建されませんでした。
 迎宝橋が写った絵葉書はほとんどが旧温泉側からの写真で、新温泉側からの絵葉書は希少です。また、迎宝橋が架設されて間もない頃の絵葉書は数少ないですが、松月楼(樓)の絵葉書に迎宝橋架設当時から差ほど遠くない時期の新温泉側から見た迎宝橋が写っています。
 松月樓は寳塚案内誌(大正2年3月発行)、攝北温泉誌(大正4年1月発行)には紹介されておりますが、寳塚温泉案内(明治36年7月発行)、寳塚沿線名勝誌(大正9年12月発行)には記載されていないため、営業期間は明治末期~大正初期の短期間であったと思われます。

(迎宝橋と松月楼)明治末期~大正初期
松月楼1大正9年発行の「寳塚沿線名勝誌」には「新温泉裏手に架せる迎寳橋は、猶此珍しき一本杭式なれば、注意して見落し給ひそ。」と記載されていますが、この絵葉書では二本杭となっています。同時期の宝来橋と同じ杭工法となっています。川向の右中程の川岸近くに建っている旅館が「松月楼」です。「旅館・御料理・初月樓」の看板が屋根の上に立っています。



(2本杭の宝来橋)
宝来橋2本杭
左の写真も明治末から大正初期の宝来橋ですが、橋の構造(橋杭2本と橋杭間のクロス補強)が上の迎宝橋の写真とそっくりです。






 (旧温泉から見た迎宝橋と新温泉)
迎宝橋と新温泉
上の2枚の絵葉書と余り遠くない時期と思われますが、手すり、橋床が木製で、橋の中程には大石が3個載せられています。大石は武庫川の増水による橋の流失を防ぐために講じられたものと思われます。






(松月楼絵葉書)
松月楼3松月楼は、寳塚案内誌、攝北温泉誌には紹介されていますが、大正9年発行の寳塚沿線名勝誌には紹介されておらず、電話番号38は福徳樓で登録されています。
 〇寳塚温泉案内(明治36年7月発行)   未記載
 〇寳塚案内誌(大正2年3月発行)     記載(電話 寳塚38番)
 〇攝北温泉誌(大正4年1月発行)     記載
 〇寳塚沿線名勝誌(大正9年12月発行) 未記載



 (「寳塚案内誌」の松月楼の立地)赤でマークした場所
宝塚案内誌地図(松月楼マーク)宝塚案内誌地図拡大(松月楼マーク)









(その後の迎宝橋の絵葉書)

(大正末期から昭和初期の迎宝橋)  門樋楼から見た迎宝橋       

コンクリート・手すり杭は鉄製 
正面は新温泉。







 (昭和13年7月の阪神大水害時の武庫川増水による流失写真)
迎宝橋流失









 (迎宝橋親柱)現存写真
迎宝橋 現在
迎宝橋はこの親柱の数メートル上流に架かっていたそうです。
(朝日新聞2003年6月21日阪神版)