旅館分銅家の初代館主の小佐治豊三郎は岡田武四郎、田村善作とともに泉源を見い出し、温泉場を開発した宝塚温泉最大の貢献者であり、分銅家は宝塚温泉の開場(明治20年5月)とほぼ同時期に開業し、宝塚温泉の歴史を背負い、歩んできた旅館です。しかし、宝塚温泉の開湯100周年を待たず昭和58年2月にひっそりと閉館しました。分銅家の跡は湯本台広場等になっています。
  分銅家は、宝塚温泉の中心、高台にある大型旅館であったため、明治時代から絵葉書等に数多くの写真が残っています。分銅家の右隣には土産物店のほか、理髪店も見受けられます。

 (分銅家正面)写真
分銅屋この絵葉書は明治30年台中頃と思われます。分銅家の右隣もまだ店舗ではなく、物置のようです。石垣のトンネルをくぐったところに正面玄関があります。
本通りからトンネルまでが坂道になっていますが、これ以後の絵葉書は階段に変わっています。
高い石垣は分銅家の建築当時既に存在していたようで、分銅家建築以前の道路造成時の擁壁ではないかと推測されます。



分銅屋 (3)阪鶴線と印刷されています。阪鶴線は明治40年に国有化されていますので、この絵葉書は明治30年代後半と考えられます。
トンネルの入口上部に電燈が設置されています。

右隣の店舗の軒上には「理髪師」の看板、引戸には「髪床」と表示されており、理髪店があります。現在同じ場所に理容の老舗「ヘアーサロン前田」があります。
2階の左側には「松涼庵」の大型看板が掛かっています。

分銅屋 (2)
(分銅家の南側のエントランス)









分銅家の右隣の土産物店は、旧温泉場、宝来橋のすぐ傍で、また、新温泉側からも宝来橋を渡り、旅館に向かう際に必ず突き当たる立地であるため、土産物店としては絶好の場所と言えます。このブログで紹介しています絵葉書・写真類もこの売店等で販売されていたと予想されます。
分銅屋 (本通り)
上の絵葉書より後の時代の写真です。分銅家の右隣に商店が写っています。左端が理髪所で、右に3店土産物店が並んでいます。2階部分の大型看板は、右側が「寳塚鑛泉湯乃花・中野寳泉堂」、中央は「立美家」と読めます。軒の看板は「寳塚名産」「みやげ物」等の看板が掛かっています。





分銅屋と土産物屋

右側の提灯の文字は「友金」と思われます。提灯の下には絵葉書らしきものが吊るされています。軒の看板は「寳塚名産 水飴・山椒 中野商店」と読めます。
土産物店の最も分銅家寄りの角の箱は郵便ポストと思われます。


分銅屋 (風景印)
「分銅家スタンプ」(明治~大正時代)

宝塚へ一度は御越し。黄金色のしたお湯がわく。
摂津寳塚・御旅館、内湯、御料理「分銅家」




読売新聞阪神支局編の「ふるさと春秋-阪神間の歴史散歩-」には、分銅家閉館後に分銅家の4代目であった小佐治楢正氏から伺った分銅家、宝塚温泉の追憶話が記載されています。
 分銅家は、「軒がわらの一枚一枚に刻まれた「分銅」の紋」「内庭に池があり、その上に架けられた渡り廊下で十四あった客室や五十畳の大広間などと結ばれていた。池は近くの塩谷川から清水が引き込まれ、コイが群泳していた。」
 「楢正は実父米太郎、叔父豊一のあとを受け、昭和三十一年に四代目を継いだ。」「以前は、宿に着いた客は、浴衣に着替え、駒下駄(こまげた)をひっかけて武庫川にかかる宝来橋の南詰の共同浴場へヌカ袋やせっけん持参で足を向けた。湯は塩辛い味がして、飲用にもなった。(略)料理は会席で、七品。夏ならアユが出た。芸者も百人はそろっていた。検番のほかに、北井席、豊田席、田中席などで待機し、旅館からお呼びがかかると、利休下駄をカラコロと響かせながら、湯の町の小道を小走りに急いだ。」
 幼時に楢正が見た祖父豊三郎は「ひげをはやし
、よく大黒柱を背に長火鉢の前にどっしりと腰をおろしていました。しかし、行動の人でしたね。家族の知らない間に満州やロシアまで出かけ、大騒ぎになっていても意に介さなかった。」

  (戦前 パンフレット)
分銅屋1分銅屋2









(参考文献)
昭和63年2月28日読売新聞阪神支局編中外書房発行
 「ふるさと春秋-阪神間の歴史散歩-」