明治40年8月15日大阪經濟社発行「大阪經濟雑誌(第15年第8号)」(後の日刊紙「大阪朝報」)には、「寶塚紀遊」というタイトルで、大阪經濟社大槻天海編集長、大島實太郎弁護士親子、岡部亞洲の4名が旅館壽樓(寿楼)に宿泊し、千歳橋、丁字瀧、隧道等周辺を散策した紀行文が掲載されています。
 千歳橋については、大正5年7月10日付の大阪朝日新聞(神戸附録)には、大阪の時計商石原久之助が武庫川北岸の旅館寿楼の裏手に炭酸泉温泉を新設するに当たり、同所から向い岸の見返岩へ千歳橋を計画し、炭酸泉温泉は実現できなかったが、千歳橋は石原久之助の援助の下、架橋出願中であると報じていますが、この紀行文では千歳橋、丁字瀧、隧道は寿楼が私設したと記載されています。また、隧道の中には、床几が置かれ、茶菓を提供する売店もあったと記載されています。
千歳橋、丁字瀧、隧道の私設の件については、筆者が寿楼に滞在していることから、寿楼の主人か従業員から聞いた話と思われます。
 丁字瀧は、「寳塚温泉案内」は丁子ヶ瀧と表示されていますが、絵葉書では、丁字瀧、丁字ノ瀧と記載されているものが多く見られます。昭和時代初期には長壽ヶ瀧と称された時期もあるようで、滝の側に「長壽ヶ瀧」の碑、茶亭に「長壽亭」の提灯が写った絵葉書があります。

大阪經濟雑誌(第15年第8号)掲載「寶塚紀遊」の興味深い点は下記の記事です。
宝塚紀遊1.隧道は、ただ納涼のために作ったものであるが、千歳橋、丁字瀧とともに寿楼主が私設した。
原文は以下の通りです。
「歩を轉じて西に周り隧道に入る、其の名を知らず、此は只納涼の為に特にしつらへたるものにして、先きの千歳橋丁子瀧と共に壽樓主の私設にかゝるものなりと云ふ、樓主の之等建設の動機が全く自己の利益に出でたると、公共の為にせしものとを問はず、寶塚の地之れが為に遊覧の場所を添へたるものと云ふべく、大に徳とする處なかるべからず、吾人亦之を偉なりとす。」

2.丁字瀧の茶亭に休憩したが、混みあっていた。蒸し暑かったこともあり、寿楼が築造した隧道に入ったら、夏でも寒い心地だった。暗い隧道の中央に置かれた床几に腰掛ければ、涼しかった。売店があったので、お茶、お菓子を喫した後、退出した。
 (隧道には特に公式の名称はなかったようで、この紀行文では涼風洞とか、寿隧道(ことぶきとんねるとルビ)と記載していることから、単に「丁子瀧のトンネル」と呼ばれていた可能性が高いと思われる。)
 原文「當壽樓主人の創意により義侠的に懸り居れる丁字瀧の下に至り、纚々然として丁字形に繽粉たる白玉の飛び來るを歡迎しつゝ、茶亭に休憩せしが男女雜沓して其の喧々の煩熱と擾々の俗氛を厭ひ、冷蔵庫に入りたき場合幸に又々例の壽樓主人の築造せられし壽隧道の中に入るを得て、夏尚ほ寒き心地のする儘に暗々冥々たる中央の床几に腰打掛くれば霜軀氷心の感に堪へず、其處なる賣店にて茶菓を喫して悠々辭した。」

3.柳橋(ナチュールスパ斜め前の塩谷川に架かる橋)は、素木のままの方が良いのに青いペンキを塗ってあり、俗っぽく、雅でない。

原文「更に踵を廻へして峡崕の山道を辿りて寶塚の邑に至る、入口に柳橋あり塗るにペンキを以てす、俗氣厭ふべし、素木のまゝにせば却って雅にして似つかしかるべきに、なぞ世の人々は心なきなど思ひつゝ歩める間に寶來橋の頭に立ちぬ。」


4.宝塚は人家もない所であったが、尾形源四郎という人がこの地に着目し、付近の土地を買い占めたが、後に持ち切れず人手に渡してしまったが、今日は繁栄し土地の価格は当時に比べ10倍から20倍に達した。尾形源四郎は、種々の新事業を企てたが、成功を見ず最近亡くなった。

原文「抑も寶塚は昔鹽が淵とて河水深潭を堪へ、草木生茂り人家もなき處なりしが、尾形源四郎なる人之に着目し、附近の土地を買占めたるも持ち切れずして人手に渡せしに、後終に今日の繁榮を見るに至り土地の價格の如きは當時に比して十倍二十倍に達せりと云ふ、尾形なる人は其後も山嶺を開拓し(今日櫻田新田と稱するもの廣さ三町歩なりと云ふ)種々の新事業を企てしも一も成功を見ずして先年身まかりしとなん、あな哀れなる話ならずや。」


(舞台となった千歳橋・丁子瀧・隧道)
 当時の宝塚温泉は宝来橋の南詰周辺が中心街で、寿楼は中心街から外れていることもあり、もし、千歳橋がなかったら、丁子瀧へのアクセスが宝来橋経由になるなど立地的に大きなハンデとなり、また、立地的に丁子瀧は寿楼にとって最大の観光資源であったと考えられるため、千歳橋、丁子瀧、隧道の築造に関し一部費用負担した可能性は高いと思われます。
千歳橋周辺地図(昭和10年6月発行)大日本帝国陸地測量部
寿楼から千歳橋の北詰までは徒歩数分程度ですが、宝塚温泉の中心地、宝来橋へは遠く、不利な立地となります。丁子瀧は千歳橋の南詰のすぐ傍になります。(昭和10年6月の地図を加工しています)
寿楼と千歳橋
千歳橋と寿楼(本館)
千歳橋は大正10年5月に完成し、昭和20年の夏に台風による武庫川増水で流失しました。

寿楼

4名が宿泊した後の時代の旅館寿楼正面






(明治・大正時代の丁子瀧と茶亭)  (現在の丁子瀧)
  
丁字ノ瀧現在の丁子瀧 1













 (明治・大正時代の丁子瀧隧道北側開口部) (現在の丁子瀧隧道の南側開口部)
摂津宝塚丁子ヶ瀧隧道現在の丁子瀧 ・隧道3(2の一部)丁子瀧の右手奥に隧道(トンネル)があり、岩を貫通して、生瀬方面の本道に合流します。現在、土砂で半分埋まっています。北側開口部は建設会社の作業所内にあるため入れません。


(明治・大正時代の見返橋と丁子瀧への階段)
見返り岩 (2)
見返橋の手前左側の階段を下りていくと丁子瀧に達しますが、4~5メートル程度下りる必要があるため、滝へのアクセスの高低差が小さい隧道を利用する人も多かったと予想されます。






  (昭和初期の丁子瀧)
 丁子瀧
昭和初期の絵葉書と思われますが、茶亭には「長壽亭」という提灯、滝の右側の石碑は下部が隠れていますが、長壽と書かれていますので、多分「長壽ヶ瀧」と書かれていると思われます。









  (明治時代の柳橋)            (現在の柳橋)
手彩色拡大IMG_0922柳橋はナチュールスパ斜め前の塩谷川に架かる橋です。左の明治時代の柳橋は手彩色絵葉書ですが、手彩色は実際の色と異なるケースも多いため、実際の色かどうか不明です。