明治33年9月20日大阪經濟社発行「大阪經濟雑誌(第9年第4号)」に「月見散歩寳塚行脚」として、当時の宝塚の近況、裏事情など興味深い見聞録が掲載されています。
宝塚行脚この雑誌は、明治時代の宝塚を案内した最古の書誌「寳塚温泉案内」の3年前に、また、宝塚温泉が開業して13年しか経過していない時期に発行されており、当時の宝塚が窺い知れる貴重な記事が掲載されています。
 特に、温泉場を経営した保生会社について、また、当時の旅館の料理、料金やウィルキンソンが着手する前のラムネの売り出しなど、新事実が発見できました。

寳塚温泉
当時有名であったとする3旅館の特徴を述べています。
 泉山楼(せんざんろう)は料理を、分銅屋(ふんどうや)は座敷を、寶樂家(ほうらくや)は客筋を特色としている。この他に丸庄(まるしょう)、寶泉樓(ほうせんろう)、豊島屋(てしまや)などの旅館があるが、これという特色はない。
(原文)
「松樹蒼々の間に点々聳立する幾十の人家、皆是浴客の為に設けたる旅舘に非ざるはなし、而して此旅舘の内にて、最とも名高きは、
 泉山樓(福井善兵衛)   料理を特色とす
 分銅屋(小佐治豐三郎) 坐敷を特色とす
 寶樂家(小梅佐七)    客筋を特色とす
の三軒にして、此外に丸庄、寶泉樓、豐島屋などあれども、別に之といふ特色なきが如し、温泉の効能に付ては、緒方維準、高橋正純、清野勇、櫻井小平太氏等の、試験成蹟若くは証明書に依れば胃腸病に最とも効ありと云へり、」



保生会社
地元から鉱泉湧出地を借地して温泉場を開業した保生会社について、裏事情も含めて、興味深い内容が語られています。温泉場の開業が明治19年と書かれていますが、当時の新聞によると明治20年5月5日が正式な開業日となっています。
 温泉場は、分銅屋と泉山楼の主人が資金を出し、他に岡田竹四郎、田村善作が発起人となり、明治19年に開いた。大阪川口の牛乳屋「延利軒(えんりけん)」の主人であった小佐治豊三郎はこの温泉地周辺の土地を購入する時、もともと温泉を開くのが目的であったが、牧場にするという口実で1反につき10円というほとんど捨て値のような相場で購入できた。当初、2万5千円(1株25円)の株式会社を発足させ、会社名は保生会社(ほせいかいしゃ)と名付けた。社長には石原久之祐(助)(いしはらひさのすけ)を推挙した。後に萩原吉兵衛、春元重助等が1株25円の株を30円で買い上げ、石原氏を追い出した後、萩原を社長にし、春元、小栗、小梅、小佐治、小亀等数氏の合資会社にした。本年は盛況で、入浴客は多い時は1日700名にのぼることもあり、夏の間も平均で1日500人来場している。
  浴料は下記の通り。
   ・特別(1湯槽(ゆおけ)1回)   20銭
   ・上等(一人前)          5銭
   ・並等(一人前)          3銭
1人1回5銭で1日2回入浴したとして、平均1日の収入は50円になる。10年前1反僅か10円の僻地が今や1坪15円を出しても碌な場所は手に入らない。
(原文)「抑そも此温泉の開發者は、分銅屋と泉山樓の主人が金主となり、外に岡田竹四郎、田村善作などいふが發企人となりて、去明治十九年に、始めて開いたのであるが、分銅屋の主人小佐治豐三郎は、其以前大阪の川口で、牛乳屋をして居た延利軒の主人で有たから、始め此温泉の地面を買入る時には、表面牧場にするといふ口實で有た、土人等は今日の様に繁昌するとは夢にも思はなかったから一反歩に付拾圓、殆んど捨賣の様な相場で、賣ったのであるが、小佐治は素より温泉を開くが目的なれば、其後之を貳萬五千圓一株貳拾五圓の株式會社にして、保生會社と名づけ、大阪の石原久之祐氏を其社長に推擧した、所ろが石原氏は有名の耶蘇教であるから、斯る遊び場所の會社の社長にしては、どうも受が悪い、ソコで耶蘇教嫌ひの株主中、萩原吉兵衛、春元重助氏等一團と成て、株の買占をなし、一株貳拾五圓の株を参拾圓に買上て、首尾よく石原氏を追出した後、更に萩原氏を社長として、春元、小栗、小梅、小佐治、小龜等數氏の合資會社にしたのである、然るに本年の如きは、浴客四方より群集して、一日の旅客多き時は殆んど七百名に上りし事ありと云へば、七、八、九の盛夏三ヶ月の平均、一日五百人の浴客と見て大差なかるべし、浴料の定めは、
  一特別(一湯槽一回) 金貳拾錢
  一上等(一人前)    金五  錢
  一並等(同上)      金参   錢
なるを以て平均一人一回五錢、一日二回入浴すると見て、一日の収入應に五拾圓なるべし、アゝ十年前には一反歩僅かに拾圓に過ざりし山間の僻地今や一坪拾五圓にても、ロクな地面手に入る事覺束なしといふ、」

 
  
寳塚美人
寳塚美人とは芸者さんのことを指しており、温泉が盛況で神戸より芸者さんが出稼ぎに来ているという話である。
 温泉には美人(芸者)が付き物である。昨年以来、夏の間だけ、神戸から出稼ぎに来ている芸者がいるが、今年に入って増加し合計6名になっている。しかし、最近「小三(こさん)」、「小力(こりき)」の2人は神戸に戻ったため、今、宝塚に残っているのは「梅吉(うめきち)」、「廣助(ひろすけ)」、「長吉(ちょうきち)」、「たね」の4人である。
(原文)「寳塚の發達は、近年殊に著じるしき者あり、 (略) 昨年以來夏の間だ、神戸より美人の出稼ぎする者ありしが、本年に入ては、其頭數更に増加して都合六人となれり、何れも海に三年の道樂を仕盡し、今又山に三年の修業を積んとせる天晴大膽の老武者なれば、伎倆中々鋭どく、多病の才子往々にして生擒るゝを見る、併し其六人の内にて
  小 三    小 力
の両個は、既に此頃客を啣えて神戸へ凱旋し、現に今残れるは、
  梅 吉    廣 助   長吉   たね
の四人なるが、何れも冬籠りの用意をなしつゝある者の如し、」


紳士別莊
明治30年の年末に阪鶴鉄道が宝塚まで延伸し、交通の便が良くなったためか、この記事が書かれた明治33年頃には有力者の宝塚への別荘の造営が増加したようである。 大阪朝日新聞社長の 村山龍平の別荘もあったようです。
 温泉あり、美人あり、殊に鉄道が便利であり、また、春の花、秋の月良し、避暑、冬籠りに最も良いことから、大阪の有力者でここに別荘を造営する者が既に十数人に上る。
主な人は、 大阪朝日新聞社長の 村山龍平、保生会社の社長にもなった東区南久宝寺町三丁目の萩原吉兵衛(小間物商)、中谷徳恭(大阪出身衆議院議員)などである。大阪南区塩町四丁目の木綿商瀬尾喜兵衛(後の近江銀行頭取)の別荘は目下新築中であるが、最も壮大で、宝塚第一の別荘となるであろう。
(原文)「温泉あり、美人あり、殊に鐡道の便利あり、春の花に宜し、秋の月に宜し、避暑、冬籠り、又最とも宜し、去れば大阪紳士の此所に別莊を造營する者、既に十幾人、此内の重なる者を擧れば、
      大阪朝日新聞社長                  村山 龍平
      大阪西區立賣堀南通五丁目  (質商)        牧野清兵衛
      同東區備後町一丁目      (洋鐡商)    長澤 富三      
           同東區伏見町四丁目      (洋端物商)   松井 岩助   
      同南久寳寺町三丁目      (小間物商)   萩原吉兵衛   
      同東區南本町四丁目      (羅紗商)     上田長三郎
      同南久寳寺町二丁目      (小間物商)   小山 由藏   
      同東區平野町四丁目      (時計商)    岡 橘兵衛   
其他中谷徳恭、清海よね、朝妻など、外にもまだ數戸あり、殊に
      大阪南區鹽町四丁目               (木綿商)      瀬尾喜兵衛
氏の別荘の如きは、最とも壮大なる者にて、目下新築最中 本月十二日上棟なるが、竣工の上は寳塚第一等の別莊となるべし、」


宝塚行脚2泉山樓
筆者は二人で泉山楼に宿泊しました。泉山楼の料理、料金等が詳細に記述されています。

 寳樂屋(ほうらくや)、分銅屋(ふんどうや)、泉山樓(せんざんろう)を宝塚の三大旅館とし、三旅館を批評しています。宝塚の三大旅館の内で、寳樂屋は一見のお客を取らない。分銅屋は見かけは大きいが、客扱いが悪い。泉山樓は入口は不潔だけど、武庫川の清流に臨む眺望とおいしいものを食べさせるという評判である。分銅屋と泉山樓の食事を食べ比べたが、優劣の判定が出来なかったが、泉山樓の方が手頃であったようだ。

泉山楼の食事の献立は次の通りであった。
  夕食  焼 肴(やきさかな)   はもの骨切り
       指 身(さしみ)      鰈、薩摩芋、山葵
       吸物(味噌汁)       こち、麩、
       猪 口(ちょく)       山椒
  朝食  皿 物(さらもの)     昆布巻
       向 皿(むかいざら)   椎茸、湯葉、麩
       汁 物(しりもの)     素麺、鶏卵の巻焼
       猪 口            奈良漬

泉山楼の料金は二人合計で次の通りであった。
   夕食              75銭(2人で150銭)
   お酒              70銭
   一等湯札6枚(温泉)    30銭
   花代(廣助)          54銭
   花代(梅吉)          54銭
   2人で合計3円58銭
芸者、仲居さんへの祝儀を加えて、1人わずかに2円足らずと、低料金で驚いています。
(原文)「寶塚三大旅舘の内にて、寳樂屋は一見のお客を取ぬといふ仕法を守って居る、分銅屋は見かけは大きひが、客扱かひが惡い、泉山樓は這入口が不潔なれども、武庫川の清流に枕みたる眺望と、甘ひ物を喰せるといふ評判である、併しながら余が試ろみに分銅屋と泉山樓との食物を喰比べて見た所ろにては、未だ俄かに其優劣の判定は出來ないが兎に角泉山樓の方は、主人自から庖厨を指揮する外、總て輕便を主として、客の懐ころを貪ぼらざる所ろに、勉強を見せる者の如し、
  晩食  燒 肴          はもの骨切り
       指 身          鰈、薩摩芋、山葵、
       吸 物          こち、麩、(味噌汁)
       猪 口          山椒
  朝食  皿 物          昆布巻
       向 皿          椎葺、湯葉、麩、
       汁 物          素麺、鶏卵の巻焼、
       猪 口          奈良漬
泉山樓一夜二食の献立右の如く、(略)、さて翌朝の勘定を聞ば、
        記
   一金七拾五錢           夕     飯  
   一金七拾錢          御     酒              
   一金参拾錢          一等湯札六枚
   一金五拾四錢         廣           助         
   一金五拾四錢         梅           吉         
     〆  金参圓五拾八錢
     右正に請取候也   泉山
之にお茶代と、藝者仲居への祝儀を加へて、一人前僅かに貳圓足ずの散財とは、何と驚ろくべき廉に非ずや、」



炭酸水
明治21、2年頃、小佐治豊三郎等(保生会社か)が温泉場の鉱泉を原料として、ラムネを作って売り出したが、失敗に終わった。その後ジョン・ウィルキンソンがその鉱泉を購入し、販売するようになった。市史などにおいて、ジョン・ウィルキンソンが鉱泉販売を手掛ける前に保生会社がラムネ製造場を建設していたらしいと記述されていますが、実際、ラムネを販売した証跡がありませんでしたが、この記事で販売もされたことが証明されました。
  明治21、2年頃、分銅家の小佐治豊三郎等の発案で宝塚の鉱泉を原料として、小判(こばん)「ラム子(ネ)」というものを作って売り出したことがあるが、失敗に終わった。その後、ふとしたことから神戸にいたウィルキンソンという男がその「ラムネ」の代わりに炭酸水を製造、輸出することを考え、小佐治豊三郎等(保生会社か)から初めは2合瓶1本1厘で20年の契約をして事業に着手した。その後、明治30年の大洪水で製造所を流してしまったため、約800円ほどの水代が滞って、一時は悶着を重ねたが、ウィルキンソンも多額の投資を重ねており、中止するわけに行かず、また、他に良い鉱泉もなかったため、示談の結果、1本の水代1厘5毛、向こう10年という内容で再契約することになった。今は1か月の製造高40万本にも及ぶ。(原文は英国人ジョン・クリフォード・ウィルキンソンを誤って米国人ゼームス・ウィリキンソンと記載されています。)
(原文)「明治二十一二年の頃、小佐治豐三郎等の發起で、寳塚の礦泉を原料とし、小判「ラム子」といふを作って賣出た事がある、然れども之は遂に失敗に了り、其後フトした事から、神戸に居た米國人ゼームス、ウィリキンソンといふ男が、其「ラム子」の代りに炭酸水を製造して、輸出するの工夫を考がへ、初めは二合瓶入一本一厘で、二十ヶ年の契約をして、着手したそふだが、去明治三十年の大洪水で、其製造場を流して仕舞た所ろから、凡そ八百圓程の水代が滯こほり、拂ふの拂はぬのといふて、一時は隨分悶着を重ねたが、米人の方でも、既に多額の資本を卸して着手した者を、今俄かに中止する譯にも行ず、去とては又外によい礦泉もない、結局米人の方から示談して、更に一本の水代一厘五毛、向ふ十ヶ年といふ再契約をする事に成て、現今盛んに製造し、其一ヶ月の製造高、殆んど四十萬本に及べりといふ、」

丁子が瀧
当時、宝塚随一の名所であった丁子が瀧は伊孑志村の共有地だったが、西宮の岩田吉兵衛、岩本勘二郎両人が借りていた。瀧には炭酸泉も湧出していたが、湧出量がわずかで大赤字であったようです。
 見返り岩の前に架かっている橋を「見返り橋」と云い、この橋の左に丁子が瀧があるが、ここには炭酸泉が湧出し、掛け茶屋もある。この辺りは伊孑志村の共有地であるけれども、この瀧と鉱泉は西宮の岩田吉兵衛、岩本勘二郎両人が借りている。地代は年10円、水代は月に2円で、合計年間34円の10年契約となっている。ここの地面はわずか90坪で、鉱泉の湧出高はわずか8石に過ぎず、掛け茶屋の主人が語るには、この鉱泉を開掘し、試験分析するために既に300円費やしているそうである。
(原文)「其見返り橋より右を見返れば武庫川の清流、左りを見返れば六甲の山續き、凡そ三丈餘の斷崖より、滔々響きをなして一條の白布を垂る、之を丁子が瀧といふ、此所にも炭酸水を湧出し、其瀧の麓には小さなる掛茶屋などあり、來遊の客を待ものゝ如し、一体此邊りは伊孑志村の共有地なれども、此瀧と礦泉とは、西の宮の岩田吉兵衛、岩本勘二郎両人の借地となり、地代年に拾圓、水代月に二圓、即はち一ヶ年参拾四圓にて、十ヶ年の契約なれども、資本の都合にて、空しく水を遊ばせて居と云へり、併し此地坪とて漸やく九十坪、礦泉は一晝夜の湧出高、僅かに八石に過ず、併し其掛茶屋主人の語る處ろに據れば、此礦泉を開掘して後、試驗分析等をなすにも既に三百餘金を費やしたれば、一坪の相場三四圓内外ならんとぞ、」

他に、京都南禅寺の本堂を再建するために設けられた団体である瑞龍會(会主・山口源兵衛)の泉山樓で行われた発会式について記載されていますが、省略しました。