1920年(大正9年)1月30日付の神戸新聞の連載記事「居留地の今昔」の第16回で、ウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンの談話が掲載されています。クリフォードは1923年に亡くなるので、亡くなる3年前の68歳の頃の談話になります。このブログの「創業者の長女によるウィルキンソン・タンサン沿革史とその検証」の中で、クリフォードの長女エセルの談話は紹介いたしましたが、創業者クリフォード本人の談話は新発見です。
ウィルキンソン神戸新聞記事(大正9年1月)カット
 左が神戸新聞の記事ですが、「寳塚炭酸泉の發見者ウイルキンソン氏の古き追懐談」という見出しになっていますが、前半は、前回連載の続きでP・S・カベルドウの追想談が記載されています。後半にクリフォード・ウィルキンソンの談話が記載されていますが、取り留めのない内容が多く、物足りない内容ですが、天然鉱泉発見の経緯は本人の談なので、重みがあります。
 宝塚の炭酸水の源泉を見つけた切っ掛けについては、長女のエセルは「父が或る日の事、宝塚へ狩猟にまいりました折、ふと天然鉱泉の湧出する処を見出した」と述べていますが、クリフォードも同じく猟の途中に出くわしたと記載されています。



神戸新聞の中で、クリフォードはこのように述べています。

.宝塚の炭酸水の源泉は猟の途中に出くわした
 クリフォードがある日、宝塚の山中で猟をしていた際、喉が渇いて堪らなくなったが、携帯のウィスキーをクーリーが飲んでしまったので、仕方なく谷あいをあちこち探水していたら、思いがけず清冽な水を見つけた。これが、現在経営している炭酸水の源泉地となった。

(原文)
「(私は猟が好きで)或る日宝塚の山中にあって余り飛歩いたので咽喉が燥いて堪らぬけれど携帯のウイスキー瓶を苦力が飲んで了うたので仕方なく谷合を彼所此所と探水した結果、図らず清冽なる水を手に入れた、是が今、私が経営して居る炭酸水源泉地てある。」

2.来日当時の神戸外国人居留地の状況
 41年以前に神戸に来たが、当時から、ある程度の施設が整っており、居留地では不自由を感じなかった。来日当時から、ワイマーク氏(George H. Whymarkと思われる)が外国人向けの飲食料品を供給していたが、今は止めてしまった。居留地には厳重な関門が設けられ、出入りは厳重にチェックされていたが、日本人と居留地の外国人とは最初から円満な関係で、相互往来もあり、隔たりはなかった。

(原文)
「私が神戸へ来たのは四十一年以前で引続き現在迄居留地に出入して居るが特に感想と言うべきものはない、何となれば私が来た時は最早すべての設備も完全と言う程でないが不自由を感じなかったからだ。 (略) 私が来た頃から外人飲食料品を供給して居るのは例のワイマーク氏で今は止めて了うた。日本人と居留地外人との間は最初から円満で厳重な関門なども設けられ出入も日本の役人から綿密に吟味されて居ったけれども、日本人の方も訪問するし外人の方からも尋ねて行って隔意なかった。」

3.当時の神戸外国人居留地の物価
 物価は当時は安く、なみなみと注いだワインが5銭だった。海岸寄りに兵庫ホテルがあったが、昼食が1円50銭で食べられた。もう1カ所のホテルは昼食が1食50銭であった。

(原文)
「併し現在と較ぶれば物価は非常に廉かった、一杯の葡萄酒がナミナミと注いで五銭だった。当時海岸寄の所に兵庫ホテルと言うがあったが、当時の昼食が一円五十銭で食べられた。最う一つのホテルでは一食五十銭(昼餐)であった。」

4.クリフォードは愛猿家であった
 
クリフォードは愛猿家で来日以来、猿を飼っていた。一時、宝塚の自宅では7~8匹飼っていたが、家族に悪戯をしたり、山中に逃走したり我儘な猿が出現し、驚きあきれ、今は1匹だけしか残っていない。

(原文)
「そして同氏は来朝以来、一日も猿を手離したことの無い有名の愛猿家で、一時宝塚の自邸には七八匹の猿を飼養して居ったが、猿公特有の悪戯が屡家人を僻易せしめるのと勝手に山中に逃走する我儘猿ができたりして、遉の愛猿家も到頭我を折って了うた。そして今はタッた一匹丈けしか残って居らない。」

(引 用) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・神戸新聞 都市(01-023)