大正2年に発行された「寳塚案内誌」(藤井碧浪著、たから新聞社発行)の記載地図内の旅館を絵葉書、パンフレット等により、ご紹介していきます。
「寳塚案内誌」23ページ
1.旅館 菱富(ヒシトミ)
場所は、阪急宝塚駅に近く、線路沿いで、旅館相生楼の近くになります。
部屋数は多くないようですが、堂々とした石垣と建物は風格を感じます。よく見ると、屋根の上の看板には菱形のマークが描かれています。
大正9年発行の「寳塚沿線名勝誌」には紹介されていないため、明治後期に開業し、大正時代の初期に廃業したと思われます。
2.相生楼
明治時代、温泉場周辺に旅館が集中する中、武庫川左岸、箕面電気軌道(現阪急)宝塚停車場近くに明治43年に創業した相生楼。
パンフレットには「当所に湧き出る天然カルシウム鉱泉」と記載されており、内湯がありました。
分銅家、松凉庵などとともに明治時代の開業で、宝塚駅前再開発に伴う閉館まで、明治、大正、昭和の3代に亘り営業しました。
(昭和63年宝塚温泉旅館組合発行「宝塚市観光100年(開湯100年)記念」)
(昭和4年寶塚新聞社発行「宝塚乃しほり」16ページ)
「寳塚案内誌」23ページ
1.旅館 菱富(ヒシトミ)
場所は、阪急宝塚駅に近く、線路沿いで、旅館相生楼の近くになります。
部屋数は多くないようですが、堂々とした石垣と建物は風格を感じます。よく見ると、屋根の上の看板には菱形のマークが描かれています。
大正9年発行の「寳塚沿線名勝誌」には紹介されていないため、明治後期に開業し、大正時代の初期に廃業したと思われます。
2.相生楼
明治時代、温泉場周辺に旅館が集中する中、武庫川左岸、箕面電気軌道(現阪急)宝塚停車場近くに明治43年に創業した相生楼。
パンフレットには「当所に湧き出る天然カルシウム鉱泉」と記載されており、内湯がありました。
分銅家、松凉庵などとともに明治時代の開業で、宝塚駅前再開発に伴う閉館まで、明治、大正、昭和の3代に亘り営業しました。
(昭和63年宝塚温泉旅館組合発行「宝塚市観光100年(開湯100年)記念」)
(昭和4年寶塚新聞社発行「宝塚乃しほり」16ページ)
コメント
コメント一覧 (1)
書物によりますと、廃業後、分銅家の当主は中山の方に引っ越されたようです。今も末裔の方がお住まいかもしれません。