宝塚市制10周年・宝塚歌劇50周年を記念して、宝塚市編集の画報「宝塚」が昭和39年(1964)に淡交新社より発行された。執筆者に今東光、阪急の小林米三社長、写真は秋山庄太郎、装丁は田中一光等、日本を代表する陣容で作成された。小説家、後に平泉中尊寺貫主となった今東光は、親友の宝塚歌劇団の音楽教師を訪ねた際の、宝塚の思い出を語っている。それとともに当時の宝塚歌劇関係の迫力ある写真が掲載されている。
(表紙)
(宝塚の思い出 今東光)
今東光は次のように思い出を記している。今東光は、親友で当時、宝塚歌劇団の音楽教師であった松本四郎が居住していた中州を訪れた際の思い出を詳細に語っている。
「たしか翌る大正11年(1922)の夏だったと思うが、川端康成も大阪に帰省したので僕はいっしょに行き、松本四郎の寓居に旅装を解いた。当時、彼は逆瀬川に近い真ん中に温泉のある小さな別荘風の家に、独り身をわびしく暮らしていた。その中州の住宅は何軒かが建ち並んでいたが隣り近所はなく、僕らは12時ごろになると素っ裸で逆瀬川に泳ぎに行き、真夜中をすぎるころにすこぶる爽快になって帰るのであった。」
「というのは大正3年(1914)からはじめて世に現れた宝塚歌劇に、まだ関西学院中学部の学生だった僕はいたく興味を持って、折りあらば通ったからだ。」
「僕は因縁浅くついに生前の小林一三翁には一度も親しくお目にかかったことがなかった。そのくせ僕の舎弟日出海は翁に可愛がられて、東宝の顧問になっているほど因縁が深いのに、機の熟さないということは何とも摩訶不思議である。」
「60余歳にして僕のように宝塚を語るごとく、日本人の多くの人びとは、宝塚に若き日の夢につながる思い出を残しているのではあるまいか。」
(掲載写真)
(宝塚新温泉旧玄関) (宝塚音楽学校)
(宝塚歌劇の舞台)
(楽屋風景)
(表紙)
(宝塚の思い出 今東光)
今東光は次のように思い出を記している。今東光は、親友で当時、宝塚歌劇団の音楽教師であった松本四郎が居住していた中州を訪れた際の思い出を詳細に語っている。
「たしか翌る大正11年(1922)の夏だったと思うが、川端康成も大阪に帰省したので僕はいっしょに行き、松本四郎の寓居に旅装を解いた。当時、彼は逆瀬川に近い真ん中に温泉のある小さな別荘風の家に、独り身をわびしく暮らしていた。その中州の住宅は何軒かが建ち並んでいたが隣り近所はなく、僕らは12時ごろになると素っ裸で逆瀬川に泳ぎに行き、真夜中をすぎるころにすこぶる爽快になって帰るのであった。」
「というのは大正3年(1914)からはじめて世に現れた宝塚歌劇に、まだ関西学院中学部の学生だった僕はいたく興味を持って、折りあらば通ったからだ。」
「僕は因縁浅くついに生前の小林一三翁には一度も親しくお目にかかったことがなかった。そのくせ僕の舎弟日出海は翁に可愛がられて、東宝の顧問になっているほど因縁が深いのに、機の熟さないということは何とも摩訶不思議である。」
「60余歳にして僕のように宝塚を語るごとく、日本人の多くの人びとは、宝塚に若き日の夢につながる思い出を残しているのではあるまいか。」
(掲載写真)
(宝塚新温泉旧玄関) (宝塚音楽学校)
(宝塚歌劇の舞台)
(楽屋風景)
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