今年から、あさひ高速印刷発行の月刊「ウィズたからづか」に毎月「近代宝塚歴史紀行」を執筆させていただいております。「ウィズたからづか」は宝塚市、池田市周辺に配布されている創刊35年の歴史ある情報誌です。今回から、このブログで「ウィズたからづか」の連載分を紹介させていただきます。

温泉場は小佐治豊三郎(分銅家創業者)、岡田竹四郎等の尽力により、明治201887)年5月8日に開浴しました。511日付の「神戸又新(ゆうしん)日報」には、当日の入浴客は中等室が72名、下等室は116名で、売上は4円だったと記されています。上等室の開浴は、開業式が行われた6月11日にずれ込んだようです。温泉場は、武庫川沿いの現在のホテル若水の辺りにありました。初代の温泉場は下の写真の通り、川辺に建てられたため、明治30年9月の大雨による武庫川の氾濫で流失しました。

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明治20年代後半の宝塚温泉(左端の武庫川沿いの大きな建物が温泉場で、温泉場の上が分銅家。分銅家右上の隣接建物がタンサンホテル)













開業一年後の宝塚温泉

明治21年6月13日の「神戸又新日報」には、開業1年後の宝塚温泉の様子がこのように記されています。

  旅館は分銅屋(家)を筆頭に北柳亭(栄山の前身)、辨天 樓(泉山の前身)、満壽亭の4軒存在する。

②浴場は武庫川を臨み上等室、中等室、下等室の3等に区分されている。
〇上等室は、1組づつの入浴。(入浴料一人10銭、家族3人までは同料金)

〇中等室は混浴であるが、中央を板塀で仕切り、男女を分けている。ただ、余り広くない湯槽に仕切りを設けているので、男女とも甚だ手狭である。(入浴料二銭)〇中等室は混浴であるが、中央を板塀で仕切り、男女を分けている。ただ、余り広くない湯槽に仕切りを設けているので、男女とも甚だ手狭である。(入浴料二銭)

〇下等室は中等室と余り変わらないが、雑多な客でうるさく、下等である理由が理解できる。(入浴料1銭)

③泉質は無色透明であるが、褐色の沈底物があり、塩辛く、刺激味がある。これを煮沸すれば著しく褐色、強アルカリ性に変ずる。
④温泉は直に薪炭にて煮沸せず、蒸気を通した鉄管により温めている。温泉は消化器、呼吸器、神経症、泌尿器、生殖器の諸病に効能あり。
 
⑤お客様の割合は、大阪六分、神戸が四分。

旅館「満壽亭」の当時の広告

下は、上記の旅館4軒の1軒「満壽亭」の温泉場開浴翌年(明治211月)のチラシ広告である。「1週間宿泊料 金1円拾銭」、「その他海川魚肉類お需めに応ず」と記載されており、観光でなく温泉場への湯治が主目的であったため、一週間以上の長期逗留が多かったようです。なお、小佐治豊三郎著「宝塚温泉発見以来の顚末」には、桝屋と記されていますが、正式の旅館名は満壽亭(ますてい)です
満寿亭チラシ(モノクロ)

温泉場が開業した翌年(明治21年)の旅館・満壽亭のチラシ。