嘗て、武庫川には宝来橋と宝塚大橋の間に、迎寳(宝)橋という橋があり、宝塚新温泉・宝塚大劇場と対岸の月地と呼ばれた地区を結んでいました。月地とは、県道生瀬門戸荘線を南下した湯本町のY字路地点から、左へ阪急今津線に至る武庫川の堤沿いの区域を指し、今津線を越えて中州の突き当りまで、月地線と呼ばれていました。
迎宝橋
迎宝橋は、大正2年発行の「寳塚案内誌」に、明治43年3月に架設されたと記載されています。箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の梅田~宝塚間開業と同時期、宝塚新温泉開業の1年前に迎宝橋が架設されたことになります。左の写真は、大正時代の迎宝橋ですが、対岸に新温泉、宝塚音楽学校校舎が写っています。武庫川増水時の流失対策か、木造の橋の上に大きな石が置かれています。迎宝橋は昭和25年のジェーン台風により流失し、当時、すぐ下流に宝塚新橋(現宝塚大橋)が架設されていたこともあり、再建されませんでした。
大正時代の迎宝橋(対岸の右端建物は宝塚音楽歌劇学校校舎)
月 地
月地という地名は、武庫川の河原に当たる地域であるため、埋立地、堤を意味する築(つき)地から派生したと考えられますが、「つき」の漢字に「月」を充てたのは宝塚歌劇の月組からの引用かもしれません。
明治から大正時代初期は、温泉場のある宝来橋南詰周辺に旅館、商店等が集中し、月地は、迎宝橋周辺に門樋楼や川萬などの旅館が点在する程度で、家屋もほとんどない状況でしたが、その後、大正10年の阪急今津線開通により月地を含め、南口周辺も開発が進みました。
月地線の中州には、平塚嘉右衛門が宝塚温泉の湯元から温泉を引いて浴場「中州温泉」を開業し、周囲に貸別荘を設けて中州楽園と称しました。また、昭和5年には、中州楽園の敷地内に東洋一と言われたダンスホール「宝塚会館」が開業しました。昭和6年に宝塚会館を訪れた俳人山口誓子が詠んだ俳句からは、華やかなダンスホールの風景が眼に浮かびます。「ジャズ・バンドはしやぎて除夜も深まれる」「除夜たのしワルツに青きひかりさす」
昭和10年頃の宝塚観光案内(宝塚観光協会)
月地の旅館での小津安二郎
月地地区の旅館は、元宝塚ファミリーランドの東端にあった宝塚映画製作所に近いため、多くの映画関係者が宿泊しました。名作「東京物語」を監督した巨匠小津安二郎も昭和36年に「小早川家の秋」を制作した際は、月地の旅館「門樋」に滞在し、宝塚を謳歌しました。元宝塚映画製作所助監督の野村純一著「歌劇の街 宝塚を賑わしたカツドウヤ達」によると、土曜日の夜は、原節子を含め主な俳優、スタッフが小津宿泊の旅館に集合、宴会を行ない、お開きの際には、皆で腕を組み、「すみれの花咲く頃」を歌い、足を上げて踊るのが恒例であったそうです。翌日曜日は、小津の宝塚歌劇の観覧日であったそうです。
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