今回は、宝塚駅前再開発に伴いフランスの彫刻家マルタ・パン氏のデザインにより平成6年に架設された、通称S字橋と呼ばれている宝来橋と、かつて見返り岩付近にあった千歳橋の歴史に触れたいと思います。

宝来橋

初代の宝来橋(当時は寳萊橋、または蓬莱橋と表記)は、増水時に激流の抵抗を減じ、流出を避ける目的の一本足の橋脚が特徴で、明治35年頃に架設されたと言われています。ただ、それ以前に、この場所に橋が存在したことが当時の写真から判明しており、最初に橋が架かった時期が明治35年ではありません。第1回で紹介した明治30年以前の初代温泉場の写真にも、簡易な板橋が写っています。

明治30年には阪鶴鉄道(現JR西日本・福知山線)が宝塚まで延伸開業し、温泉場への鉄道利用客が増加し、武庫川左岸から温泉場への連絡橋が必要不可欠になります。明治33年に発行された「続千山萬水」には、「停車場より野徑を辿り、武庫川の岸に出でしに、過ぎし日の洪水に橋落ちて船橋をわたりて、分銅屋といへる大なる旅館に宿りて浴す」と記載されており、明治30年頃には、常設の橋が存在し、洪水で流出したため、船橋(船を並べて繋ぎ、その上に板を渡した橋)で代用したと考えられます。        

宝来橋は、明治36年発行の「寳塚温泉案内」や大正4年発行「攝北温泉誌」等定評ある書誌に、蓬萊橋と記載されています。初代宝来橋の開通時は、蓬萊橋と命名されていたかもしれません。蓬萊とは、古代中国で東方海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が住むと考えられていた霊山を指しており、縁起の良い漢字で、国内で多くの地名、橋名が存在します。宝塚温泉では、弁天、分銅、宝、寿、福、喜といった縁起の良い漢字を旅館名等に使用することが慣例化していたが、蓬萊もその一環であったのでしょう。
宝来橋合成

(上)1本足時代の宝来橋

(下)宝来橋以前にあった橋

















千歳橋

千歳橋は、鉄筋コンクリート製のモダンな橋で、宝来橋から6百mほど武庫川上流の見返り岩の手前と「愛の松原」を結んでいました。この橋は、石原時計店二代目社長石原久之助の私財により、久之助の娘婿で建築家の久保田繁亮の設計で、大正10年5月に架設されました。なお、千歳橋は、昭和2010月の阿久根台風による増水で流出し、再建されませんでした。

石原久之助は明治20年開業の宝塚温泉の運営会社の社長を務めるなど、宝塚に大きく貢献しました。小林一三とも交流が深く、開業当初の箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の宝塚駅舎の時計も石原時計店製が使用されています。久之助は昭和6年に宝塚で亡くなり、別荘に隣接する「愛の松原」で葬儀が行われました。

なお、千歳橋を含む愛の松原については、「宝塚学博士の会」が詳細に調査され、「愛の松原」(たからづかマチ文庫)として纏められていますので、市立図書館で閲覧ください。
千歳橋・宝塚駅舎合成

 

武庫川右岸側の千歳橋。左上は、初代阪急宝塚駅舎(時計盤に石・原・製・造と表示)