宝塚ホテルは、昨年6月21日に宝塚大劇場の隣に移転開業しましたが、明治時代に、同じく「宝塚ホテル」と呼ばれた洋式ホテルがあったことをご存じでしょうか。そのホテルは、「ウィルキンソン タンサン」の創業者のジョン・クリフォード・ウィルキンソンが明治23年頃に開業した宝塚ホテルです。二つの宝塚ホテルをご紹介します。
ウィルキンソンの宝塚ホテル
ウィルキンソンは、宝塚の武庫川の川辺で良質の炭酸源泉に出合ったことで、紅葉谷に瓶詰工場を設け、明治23年に炭酸水の販売を開始しました。そして、ほぼ同時期に、旅館分銅家の裏手に洋式ホテルを開業しました。ホテル名は、「寳(宝)塚ホテル」、もしくは「炭酸ホテル」と称しました。
ホテルは、海外から調達した調度品とともに、一級の料理、マルゴー等高級ワインを提供する一流のホテルでした。外国人居留地があった神戸でさえ、オリエンタルホテル等数軒しか洋式ホテルがなかった時代に、鉄道が延伸されていなかった宝塚に洋式ホテルが存在したのは、画期的なことです。
ウィルキンソンが工場見学に招待した海外の取引先や要人、そして、神戸の外国人居留地等に居住する外国人が、このホテルで宿泊し、食事しました。明治43年の宿泊案内によると、温泉場周辺の分銅家、寿楼等の旅館の宿料が80銭から1円80銭であるのに対し、このホテルの料金は倍以上の4円となっています。当時、日本人に馴染みのない洋式ホテルであり、また、高額な料金から日本人利用は皆無に近かったようです。
ホテルは、大正4年に廃業しました。鉄道が宝塚まで延伸され、宝塚が大阪、神戸から日帰り圏となり、利用客が減少したことが原因と考えられます。
絵葉書「寳塚ホテル」全景。左下は、ホテル前で佇むTANSAN柄の浴衣姿の女子従業員
阪急系列の現宝塚ホテル
宝塚ホテルは、平塚嘉右衛門と阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の共同出資により、宝塚南口駅前に大正15年5月開業しました。創業時に代表取締役となった平塚は、宝塚にとっては小林一三と並ぶ功労者で、宝塚温泉や水道事業、武庫川・逆瀬川の護岸工事に携わるとともに、寿楽荘、中州など大規模な住宅開発を行ないました。最盛期には、約53万坪の土地を所有し、阪急今津線の軌道用地の一部や仁川、小林、逆瀬川、宝塚南口の停留所の用地を提供しました。
ホテルは、客室60室、食堂2ケ所、宴会場の他、ビリヤードルームや温泉浴室も設置されました。また、ホテルは、阪神間在住の知名人の社交団体として宝塚倶楽部を創設し、ゴルフ場やテニスコートの経営に着手しました。ゴルフ部門は、同年、宝塚ゴルフ倶楽部として発足しています。昭和5年には、ダンスホールの宝塚会館を開業します。開業当初は、経営的に苦しく、赤字経営が続いたこともあり、平塚は昭和8年に代表取締役を退任し、阪急主体の経営に移行していきました。
皆様に愛された宝塚ホテル旧館は、昨年3月末日で営業を閉じました。在りし日の、クスノキの後ろに聳える白壁と切妻屋根の旧宝塚ホテル本館の姿を思い出すと、惜しく、淋しくなります。今後は、バトンタッチした新宝塚ホテルに期待し、応援していきましょう。
昭和15年頃の宝塚南口駅からのホテル全景
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