明治から昭和まで、分銅家とともに宝塚温泉の代表的な旅館であった泉山楼(せんざんろう)の歩みをご紹介します。明治33年発行の「大阪經濟雑誌」には、宝塚温泉の三大旅館として、泉山楼、分銅家、宝楽家の3館を挙げ、泉山楼を「泉山樓(福井善兵衛)料理を特色とす(略)主人自ら庖厨を指揮する外、総て軽便を主として、客の懐ころを貪ぼらざる所ろに、勉強を見せる者の如し」と評しています。

なお、泉山楼跡は、旅館水明館の後、現在はナチュールスパ宝塚になっています。

福井亭から泉山楼へ

今回、泉山楼を家業とした福井家の五代目にあたる福井佳子さんから、貴重な写真と共に泉山楼の歴史をご教示いただきました。泉山楼の発祥については、福井さんが、祖父で三代目当主の福井善兵衛から、「まだ石がゴロゴロして、川とは言えない頃から、お湯の出ている辺りで始まった」と聞かれており、「福井亭」(写真1)が泉山楼の起源と考えられます。写真から、福井亭は初代温泉場の傍にあった湯治客向けの茶屋であったと思われます。
(写真1)福井亭(明治24年)
(写真1)
 福井亭
(明治24年撮影)








 そ
の後、温泉場の西向かい、且つ分銅家の筋向いの好立地に、旅館「泉山楼」を開業しました。明治26年撮影の初代泉山楼の建物(写真2)の右には宝塚温泉の石碑が、玄関前には二代目福井善兵衛夫妻が写っています。泉山楼の前身は、岡田竹四郎、小佐治豊三郎とともに温泉場の建設を主導した田村善作が開業した旅館辨天楼と言われており、この写真から、辨天楼は温泉場の開業後5~6年の短期間で廃業し、泉山楼にバトンタッチしていたことが分かりました。
(写真2)初代泉山楼(明治26年)
(写真2)
 初代泉山楼
(明治26年撮影)










明治39年の火災とその後

初代泉山楼の建物は、明治39年4月に行われた日露戦争凱旋祝賀会の花火による大火事で焼失しました。写真3は、新築直後の明治39年7月に撮られた二代目泉山楼で、下は、玄関屋根の下に、防火を願って飾られていた懸魚(げぎょ)の実物写真です。

太平洋戦争中は、他の旅館と同様に、泉山楼も軍需工場の従業員宿舎となりました。戦後、占領軍が温泉周辺に進駐してきたことで、営業再開を断念されたそうです。
(上)2代目泉山楼(下)懸魚実物
(写真3)
上:二代目泉山楼
(市史資料室所蔵・福井家寄贈)

下:懸魚実物


















三代目福井善兵衛と宝塚市への寄贈文書

三代目福井善兵衛は、明治末期に温泉場持主組合に出資し、その後、平塚嘉右衛門が社長を務めた株式会社寳塚温泉にも出資、取締役に就任するなど、温泉場の運営に大きく係わりました。明治末期から、昭和の戦前まで全盛期の泉山楼を取り仕切った三代目善兵衛を、福井さんは「家では厳しく、よく喧嘩して叱られましたが、外の人には義理堅く、お客様を大事にした人でした。」と回想されています。

三代目善兵衛が主に収集し、市史資料室に寄贈された五百点を超える古文書、写真、絵葉書等は、福井家文書と総称され、宝塚の近代史の基礎資料として重要な役割を果たしています。