宝塚への鉄道は、明治30年の阪鶴鉄道(現JR西日本福知山線)に続き、明治43年3月に箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が梅田-宝塚間を開業しました。当時、箕面有馬電気軌道は、略して箕有(きゆう)電車と呼称されていました。

開業当初の宝塚停車場

写真の右に見えるのが停車場ですが、周辺に建物がない中、洋風で装飾性が高い駅舎は際立っています。駅舎の正面上部には箕有電車の社章、その下に石原時計店製造の時計が見えます。電車の奥の山際には温泉場と旅館群、左端には、旅館分銅家とタンサンホテルが見えます。停車場は名所となり、数多くの絵葉書が発行されました。
開業当初の箕有電車宝塚停車場
開業当初の箕有電車宝塚停車場










箕面有馬電気軌道は、大正7年に阪神急行電鉄と社名を変更し、大正10年9月には西宮北口から宝塚への西宝線(現今津線)を開業し、宝塚本線と接続しました。

宝塚新温泉開業

箕有電車は、鉄道開通翌年の明治44年5月、後に宝塚ファミリーランドとなる宝塚新温泉を開業しました。新温泉は、対岸の宝塚温泉の温泉場とは異なり、家族連れで日過ごすモダンな総合レジャーセンターを目指しました。戦後、ファミリーランドは5万坪の大遊園地となりましたが、当初は、敷地2千坪でスタートしました。

明治45年には洋館のパラダイスを増設し、室内水泳場や娯楽施設を設けました。その後、水泳場を舞台に変更し、少女歌劇を創立するなどし、来遊者が拡大していきました。

新温泉の開業後1か年の入浴者数は45万人、1日平均1千2百人に達しました。対岸の温泉場も当時、年間平均23万人、全国9位の入浴者数を誇っていましたが、新温泉は開業初年度に温泉場の2倍の入浴者を獲得したことになります。

小林一三は「逸翁自叙伝」の中で、新温泉計画時に対岸の温泉場が一三の希望に応えなかった結果、温泉場が発展せず、「田舎めいた湯の町に終始」していると述べており、温泉場の対応に嫌悪感を抱いたようです。


明治45年の箕有電車沿線案内

新温泉開業間もない明治45年2月に発行された箕有電車の沿線案内に、対岸の温泉場が既に「旧温泉」と表示されています。後に一般化する「旧温泉」という呼称は、箕有電車が温泉場を新温泉と区別するために命名し、沿線案内や印刷物への掲載により、普及していったと考えられます。時代遅れという意味もあり、温泉場には歓迎されることのない「『旧』温泉」という命名には、新温泉計画時に協力的でなかった温泉場に対する小林一三の恨みが籠っているかもしれません。
箕有電車沿線案内と新温泉1


(上)明治45年箕有電車沿線案内

(下)宝塚新温泉正面


































温泉場は、「旧温泉」という表現を避け、印刷物、絵葉書等には「本温泉」と表示していましたが、「旧温泉」という呼称が一般化したため、大正時代中期頃になり、正式に「旧温泉」と称するようになりました。

沿線案内には、昨今、紹介されることが少ない宮の町の宝泉寺や、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの禿頭に似ているということで、外国人からビスマルク・ヒルと呼ばれた甲山が案内されています。