花屋敷に温泉があり、日本初の無軌道トロリーバスが走っていたことをご存じでしょうか。嘗て霊泉が湧いていたと伝わる泉源を敦賀出身の東塚一吉が明治40年前後に再開したのが花屋敷温泉で、周りには料理店、旅館が設けられました。阪急雲雀丘花屋敷駅の「花屋敷」という駅名は、この花屋敷温泉が由来です。花屋敷温泉は、桃園温泉、新花屋敷温泉へと変遷していきました。

住宅開発と新花屋敷温泉土地

長尾山の東端山麓に位置する雲雀丘・花屋敷は、貴重な住宅建築が現存する日本有数の郊外型住宅地です。雲雀丘地区の住宅開発は、阿部元太郎が大正5年に着手したのが始めで、阪神急行電鉄、平塚土地経営所等が続きました。花屋敷地区は、財界の大物高倉藤平の発起により設立された花屋敷土地㈱が大正6年から住宅開発を開始しました。この会社は、温泉周辺の開発のために桃園温泉土地㈱も設立しましたが、分譲が終了した大正14年頃に会社を解散しました。
 住宅開発とともに、新花屋敷温泉、遊園地を経営し、その足としてトロリーバスを運行したのが、新花屋敷温泉土地㈱です。当初は能勢口土地という社名でしたが、好調に開発を進めた花屋敷土地㈱にあやかって大正9年に新花屋敷温泉土地㈱に商号を変更しました。左の年賀状は、初代社長の阪本彌一郎が送付した大正10年の年賀状ですが、「新花屋敷温泉土地経営地」の看板が立っていた場所はつつじガ丘付近と思われます。

新花屋敷温泉土地



新花屋敷温泉土地の初代社長
阪本彌一郎の年賀状


















日本初のトロリーバスと温泉

新花屋敷温泉土地は、開発した住宅の居住者のために幌付き自動車3台を無賃で運転していましたが、経費削減のため、輸送力が大きい無軌道トロリーバスを考案しました。大正13年の兵庫県への敷設申請書には、トロリーバスの開通に合わせて、「温泉、歌劇場、遊技場、遊園地の開設を予定」と記載されており、箕有電車の宝塚新温泉を目指したと考えられます。トロリーバスは、昭和3年8月に阪急花屋敷駅北側から長尾台本社前間の運行を開始しました。

車体は、長さ5.5m、幅1.89mで、定員28名だったそうです。故阪上太三さんは、「ウイズたからづか」において、トロリーバスに乗り、猿や孔雀の檻などがあった遊園地で楽しんだこと、また、タイヤがソリッドタイヤ(鉄輪にゴムを張ったもの)のため、ガタン・ゴトンと振動が激しく、雪の日の急坂はスリップし、乗客も降りて押すという有様だったと思い出を語っておられます。
花屋敷トロリーバス・新花屋敷温泉合成


(上)新花屋敷温泉





(下)無軌道トロリーバス
 (宝塚市市史資料室所蔵)







 温泉は、食堂、娯楽室等が備わった建坪2百坪の洋風木造2階建てで、隣接の遊園地は2万坪あったそうです。トロリーバスの運行を手掛けた新花屋敷温泉土地㈱二代目社長の田中數之助は、土地分譲が頭打ちとなり、当初は好調であったトロリーバスも収入が低下、資金繰りに窮した結果、昭和4年11月自殺に追い込まれました。トロリーバスは、赤字続きのため、昭和7年4月に営業を廃止しました。