宝塚温泉隆盛時、温泉場、泉山楼、栄山等と向いの分銅家等の旅館街を貫く道は、宝塚のメインストリートで、本通りと呼ばれていました。今回は、本通りから塩尾寺に通じる参詣道と見返り岩に通じる柳橋付近をご案内します。

塩尾寺参詣道

聖徳太子の創建と云われている塩尾寺は、現在は「えんぺいじ」と呼ばれていますが、明治時代発行の「寳塚温泉案内」、江戸時代発行の「攝津名所圖會」のルビから、嘗ては「えんびじ」と呼ばれていたようです。江戸・明治時代の塩尾寺への道標が多く残存することから、相当多くの参詣客があったことが推測できます。写真は、本通りから塩尾寺に向かう参詣道を撮った大正時代の絵葉書です。本通りに近い参詣道には、立美家、喜山など多くの旅館が並んでいました。左の建物は、絵葉書や湯の花等宝塚の名産品を販売していた土産物店です。現在は、イタリア料理店と酒店になっています。右の建物の角に立つ「六甲山・塩尾寺 十一面観世音 すぐ十五丁」と彫られた道標は、現在、15mほど奥に入った場所に移設されています。この建物の場所では、現在、インド料理店が営業されています。

塩尾寺参詣道(ブログ用)


大正時代の塩尾寺参詣道









 塩尾寺にお参りの際は、参詣道の途中の休憩所にある祠にお立ち寄り下さい。嘗て温泉場(現ホテル若水)内の炭酸泉源に設置されていた「たんさん水」の石碑とお地蔵様が納められています。宝来橋が現在のS字橋に架け替えられる際に移設されたものです。因みに、参詣道を30mほど入った左手には、クリフォード・ウィルキンソンが明治23年に温泉場の炭酸泉源を原料に、天然炭酸水を製造、販売するために設けられた瓶詰工場がありました。工場は、明治37年に生瀬に移設されました。

柳橋から見返り岩方面

この写真は大正末期頃、現在のナチュールスパ宝塚の場所にあった旅館泉山楼から撮られた、見返り岩方面の風景です。下には、塩谷川に架かる柳橋が写っています。道は狭く、柳橋は、コンクリート製のようです。
泉山楼から柳橋(ブログ用)

泉山楼から見た柳橋方面










 明治40年発行の「大阪經濟雜誌」には、「更に踵を廻へして峡崕の山道を辿りて寶塚の邑に至る、入口に柳橋あり塗るにペンキを以てす、俗氣厭ふべし、素木のまゝにせば却って雅にして似つかしかるべきに、なぞ世の人々は心なきなど思ひつゝ歩める間に寶來橋の頭に立ちぬ。“こゝもまた人里なりき柳橋 青きペンキの鼻につきけり”」と記載されており、当時の柳橋は、木造で青いペンキが塗られていたようです。

柳橋の袂には、老舗の和菓子店「三徳(さんとく)もなか本舗」が写っています。玄関の右手には、栗羊羹の看板が掲げられています。住宅地図によると、昭和55年頃まで、この場所で営業されていたようです。

通りの右には、“御料理”の看板が掲げられた丸屋旅館が写っています。当時、丸屋旅館の他に須山等の旅館が並んでいました。丸屋旅館は、平成時代まで営業されていました。