宝塚では、明治43年11月に電話業務が開始されました。当初の加入者は24名でしたが、大正12年発行「大阪を中心とせる近縣電話帳」によると、大正11年8月には145名に増加しています。加入者の氏名、職業等も記載されているこの電話帳から、当時の宝塚を窺い知ることができます。
宝塚局電話加入者の構成
大正11年のの電話加入者の構成は、旅館31名(21%)、別荘31名(21%)、商店21名(14%)、 料理業11名(8%)、芸妓置屋5名(3%)、その他医師、会社員等となっています。当時、宝塚温泉の全盛期であったため、旅館、料理業(店)、芸妓置屋等の温泉客向けの業種が多数を占めています。14%を占める商店も、温泉客向けの菓子商や、八百屋、精肉商、酒商等の旅館や料理店への販売が主と見られる商店が多くなっています。
大正12年電話帳(宝塚局の一部)
一方、宝塚が風光明媚で療養地として著名であったことから、別荘を構える者が多く、旅館と並ぶ31名が登録されています。富裕層の別荘所有者にとって、高額な電話架設料、使用料を憂慮する必要がなかったことも構成比が高くなった要因と考えられます。
宝塚局1番~5番電話登録者
電話番号は申し込み順に登録されたようですが、旅館、料理店等の事業主は若い数字を欲し、競争になったと思われます。宝塚局電話番号1番は、逆瀬川等の護岸工事や住宅開発を行うとともに、宝塚温泉、宝塚ホテルを経営した実業家で、市の功労者として顕彰された平塚嘉右衛門が獲得しています。2番から5番は、2番寿楼、3番分銅家、4番泉山楼、5番松凉庵と当時の宝塚温泉の有力旅館が占めています。
現存店舗としては、創業120年を越える炭酸煎餅「黄金家」が“56番煎餅商”、現在、御殿山に移転されている寿司「琴月」が“12番料理業”と、電話帳に掲載されています。
白洲文平等著名人の登録
興味深い人物が二人登録されています。一人は、終戦直後に吉田茂の側近として活躍した白洲次郎の父親である白洲文平。電話番号142番、住所・川面五反田で登録されています。白洲文平は神戸で綿貿易会社・白洲商店を創業、巨万の富を築き、伊丹には4万坪の白洲屋敷と呼ばれた広大な屋敷を所有していました。
電話番号38番は、住所が日ノ丘、氏名“中川くま”で登録されています。中川くまは「ウィルキンソン タンサン」の創業者クリフォード・ウィルキンソンの妻で、住所の日ノ丘はクリフォードが経営したタンサン・ホテルが建っていた場所です。ホテルは明治23年頃開業し、大正4年に廃業しましたが、その後建物の一部が生瀬の工場に移築されました。ホテル廃業後、生瀬へ移築される大正13年頃まで、一家の住居として使用されたようです。
その他、松方正義首相の四男で浪速銀行頭取を務めた松方正雄、大阪ガス・南海電鉄等の社長を歴任した片岡直輝及び石原時計店社長石原久之助の別荘が番号登録されています。
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