太平洋戦争の開戦直前から戦時中にかけて、代表作「沈黙」で知られる小説家遠藤周作は、母親、兄と共に仁川に住んでいました。灘中学に通う頃から旧制高校の入試に失敗した浪人時代にかけて、居住していたことになります。仁川が遠藤家の転居先に選ばれたのは、母親が音楽教師を務めていた小林聖心女子学院に近かったためと考えられます。

 遠藤周作は、当時の仁川の印象を「白く光っている仁川の川原を真中にはさんで、洋菓子のような洋館がたちならぶ小さな住宅村である。にもかかわらずこの小さな村はなぜかどこかの避暑地にも似たふん囲気をもっている。」と、エッセイ「仁川の村のこと」で記しています。

仁川月見ガ丘からの散歩道と法華閣

当時、遠藤周作が好んだ散歩道がありました。それは、現在の宝塚市仁川月見ガ丘にあった自宅から宝塚ゴルフ倶楽部を抜け、小林聖心の裏山を経て逆瀬川に下りる経路であった。
遠藤周作散歩道(ブログ用)

(左)ゴルフ場の抜け道

(右)法華閣道標









 周作は、散歩道の一角にあった法華閣という日蓮宗のお寺が大好きであった。夕暮れの法華閣の鐘が鳴り、小林聖心の夕の祈りの鐘がこれに応じて鳴るのを、宗教の違い、東洋と西欧の鐘の響きの違いを、不思議に思いながら聞いたそうである。法華閣は、宝塚ゴルフ倶楽部に隣接する仁川うぐいす台にありましたが、現在は、仁川小学校西側の歩道に立つ道標に痕跡を残すだけである。

創立百周年を迎える小林聖心女子学院

 カトリック女子修道会「聖心会」を母体に設立された小林聖心女子学院は、大正125月に武庫郡住吉村(現・神戸市東灘区)に設けられた住吉聖心女子学院を発祥としており、令和5年に百周年を迎えます。

大正15年に住吉村から小林に移転し、小林聖心女子学院と改称しました。移転にあたり建設された3階建ての校舎(本館)は、著名な建築家アントニン・レーモンドの設計によるもので、現在国の登録有形文化財に登録されています。
小林聖心女学院(ブログ用)


戦前の小林聖心本館 
(右下)屋上への階段






 小林聖心と程近い逆瀬川駅前の中州に、同じくアントニン・レーモンドによって設計されたプライス邸と呼ばれる豪邸がありました。「ウィルキンソン タンサン」の3代目社長ハーバート・プライスが親交の深かったアントニン・レーモンドに設計を依頼し、創業者一族が居住しました。現在、住居跡はコープ宝塚の駐車場になっています。


小林聖心女子学院の試練の時代

各界に人材を名門小林聖心女子学院にも試練の時代がありました。太平洋戦争開戦と同時に外国人シスターへの家宅捜索が始まり、その後、連合国の国籍をもつ18名のシスターは、神戸・北野町にあるホテルを転用した兵庫県第二抑留所(イースタンロッジ)に収容されました。シスターが、移送先の長崎抑留所から小林に帰ってきたのは、終戦後2カ月を経過した1017日であった。

 プライス邸の主のハーバート・プライスもイギリス国籍であったことから、昭和16年開戦と同時に抑留所に収容され、再度山にあった抑留所から解放されたのは、終戦の昭和20年であった。因みに、プライス家一族は、カトリック仁川教会所属のカトリック信者であったと聞いています。