宝塚映画祭が1119日(金)~1125日(木)まで開催されます。かつて撮影所があり、映画の都であった宝塚の映画文化復興のため、平成12年より毎年開催されている宝塚映画祭は今年で22回を数えます。メイン会場となる阪急売布神社駅前の映画館「シネ・ピピア」では、宝塚映画祭の原点となる宝塚撮影所で製作された映画を中心に名作が上映されますので、ご期待ください。

 

戦前の宝塚映画

宝塚映画製作所の引田一郎初代社長によると、宝塚映画は昭和3年頃に小林一三の指示で発足し、翌年、宝塚音楽学校の生徒の生活を撮影した作品があるそうです。その後、逆瀬川の上流に撮影所を作るという話があったようですが、小林一三が東京電燈(東京電力の前身)の社長に就任し、東京に赴任したこともあり、立ち消えになったそうです。その上、小林一三が東京に演劇・映画の㈱東京宝塚劇場(現東宝)を設立したことで、早くから計画のあった宝塚映画の方が出遅れる結果になったようです。

その後、歌劇「軍国女学生」の劇中に映写する映画を製作するにあたり、昭和13年8月に大運動場西北隅に撮影所が新設された。9月には宝塚経営部内に映画課が新設され、「山と少女」が撮影された。「山と少女」及び2作目の「雪割草」は、小林一三の意図で宝塚音楽学校の生徒だけで製作されたが、3作目の「女学生と兵隊」では、男優も加えられました。


宝塚映画製作所設立・新撮影所建設

 戦後、宝塚映画再建のため、㈱宝塚映画製作所が昭和26年8月に設立された。小林一三が㈱宝塚映画製作所を設立したのは、当時、淡島千景や乙羽信子等が映画会社に引き抜かれており、映画会社によるタカラジェンヌの引き抜きを防止することと、激しい労働争議を繰り返していた東宝の業務を補完することが目的であったと考えられます。昭和28年3月のスタジオ火災により、西宮北口のアメリカ博会場跡の体育館、映画館にスタジオを移した時期もあったが、いよいよ小林一三の指示で新撮影所を建設することになり、東洋一と謳われた宝塚撮影所が昭和31年4月に完成した。

宝塚映画製作所合成



(昭和34年頃の宝塚撮影所)










撮影所は、「国道176号線に面して約3000坪の土地に鉄筋コンクリート作りのかまぼこ型屋根の250坪のスタジオ2棟、170坪の木造スタジオ1棟、録音、編集スタジオ、映写室など1棟、それと広いオープンスタジオ(水掛不動、南の繁華街、小便たんご横丁など)がありました。」と、元助監督の野村純一さんが著書「歌劇の街 宝塚を賑わしたカツドウヤ達」に記されています。

宝塚撮影所製作の名作映画

宝塚撮影所では、32年間で176本の映画が製作されました。代表作として、森繁久彌主演の「世にも面白い男の一生 桂春団治」や小津安二郎監督の「小早川家の秋」、川島雄三監督の「暖簾」等が挙げられます。シリーズものでは、加山雄三主演の若大将シリーズ、江利チエミ主演のサザエさんシリーズが、宝塚撮影所で製作されました。撮影所は、昭和58年に閉鎖され、跡は関西学院初等部、トヨタ販売店等になっています。
宝塚映画製作所名作


(宝塚撮影所の傑作映画)