観梅のシーズンが近づいてきました。一千本を数える中山寺境内の梅林が有名ですが、戦前は、現在の宝梅町にあった「宝梅園」が阪神間随一の観梅の名所でした。

宝梅園及び成宝梅林、米谷梅林

昭和4年発行の「宝塚乃しほり」には、宝梅園を「寳塚町より数丁南方、(略)園内に数千株の白紅の梅樹あり、花候到らば馥郁たる清香を放ちて衣袂為めに薫ずるを覚え、一瓢を携行せる風人騒客の踵相接して賑ふ、蓋し絶好の観梅地として阪急沿線中の巨璧たるを失はない」と、観梅の賑わいとともに、阪急沿線で屈指の梅の名所であったことを記しています。
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宝梅園」が紹介されるようになったのは明治末期以後で、それまでは「成宝(じょうほう)梅林」が観梅の名所でした。明治36年発行の「寳塚温泉案内」には、「寳塚の町より数丁南の山麓に、成寳の梅林」と記載されています。場所が、「宝塚乃しほり」の宝梅園と同一表現であることから、成宝梅林は宝梅園の前身であったと考えられます。八馬財閥を興した馬兼介(初代)が、明治36年に煉瓦製造で富をなした成舞長左衛門が所有していた宝梅の土地を買収し、宝梅園と称する以前は、成宝梅林と呼ばれていたと思われます。
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昭和3年頃の阪神急行電鉄沿線案内











清荒神駅の近くにあった米谷梅林も観梅の名所で、阪神急行電鉄(現阪急)の沿線案内図に、宝梅園とともに案内されています。鉄道唱歌に倣って作成された箕面有馬電車唱歌にも、「紫雲棚曵く山の端に 梅の香の米谷や 清荒神かみさびて 武庫川千鳥走りゆく」と米谷梅林が歌われています。

 

宝梅園・宝梅園牧場と八馬家

宝梅園を買収した初代八馬兼介は、八馬汽船、西宮銀行(後の神戸銀行)、西宮貯金銀行等を傘下に持つ阪神間有数の八馬財閥を築きました。初代兼介の死後、当主を継いだ三代目兼介は、大正12年に宝梅園土地建物合資会社を設立しました。大正14年に建設された宝梅園土地建物事務所ビルは、当時珍しい鉄筋コンクリート造り3階建てで、宝塚ホテルや旧温泉ホテル等の作品を残した古塚正治が設計しました。
宝梅園と宝梅園土地建物絵葉書ブログ用
宝梅園を見渡す宝梅園土地建物事務所ビル










昭和3年に兄の三代目兼介から宝梅園の経営を引き継いだ八馬駒雄は、家族共々この建物に住みながら、宝梅園の経営に専念しました。宝梅園では、梅林だけでなく、収入源として柑橘類、桃、イチジク、柿等も栽培されていました。ミカンは年産一万箱を販売し、阪神間はもとより日本海側に進出し、福知山方面では独占的な地位を占めていたそうです。戦後は、宝梅園農場株式会社を設立、乳牛牧場を経営し、「宝梅園牛乳」やヨーグルト等を販売しました。宝梅牧場は、現在の宝梅2丁目宝梅アーバンライフ辺りにありました。 

宝梅園は、眼下に聖心女子学院の白亜の校舎、宝塚ゴルフ倶楽部の緑、西は甲山、大阪湾越しには生駒の山々を見晴らす素晴らしい眺望で、清遊にも理想的な場所であった。八馬駒雄は、宝塚ゴルフ倶楽部でのゴルフ、宝塚会館でのダンス等宝塚をエンジョイしたそうです。