良元村と宝塚町が昭和29年4月1日に合併し、宝塚市が誕生しました。その後、長尾村、西谷村を編入、長尾村の一部が分離し、昭和30年4月1日に現在の宝塚市域になりました。

合併時の良元村の村長が、兵庫県下初の女性村長であった岡田幾(おかだ いく)で、宝塚市誕生時は市長職務執行者を務め、市の基盤づくりに大きく貢献しました。岡田幾は著名な俳人でもあり、俳号を岡田指月(おかだしげつ)と称し、芦田秋窓とともに白扇社を創立し、俳誌「白扇」を主宰しました。


俳人岡田指月として
 月は宝塚の中州にあった自宅を「無為荘」と称し、俳誌「白扇」を発行する俳画院の拠点としました。「無為荘」は、交流が深かった浄土真宗本願寺派の法主大谷光瑞が命名しました。大谷光瑞は、発掘調査のため探検隊を西域、インド等に派遣したり、神戸岡本の山麓に二楽荘という広大な別邸を建てたり、スケールの大きな生涯を送った人物です。
岡田指月と句碑

岡田指月と句碑(宝塚聖天にて)










 昭和34年には業績が評価され、兵庫県文化賞が指月に授与され、授賞を記念して宝塚聖天(真言宗七宝山了徳密院)に句碑が建立されました。句碑には、「無為といふ たゞそれのみや 霜の声」と刻まれています。指月は宝塚市民の俳句の普及にも貢献し、昭和30年代には、宝塚市(教育委員会)主催で俳句大会が開催され、指月は審査員を務めました。

村長岡田幾として
  
岡田幾は婦人会長等を務めた後、昭和26年7月5日、合併問題で混乱下の良元村の村長に当選しました。61歳でした。小浜村と合併の予定だった良元村は、小浜村が単独で町政を施行し宝塚町と改称したこともあり、不信感を抱き、西宮市への編入を検討した。しかし、良元村民の宝塚市制への願いは強く、住民投票で西宮市との合併が否決され、混乱の責任を取り村長は辞任した。その後任が岡田幾で、混沌とした状況の良元村をまとめ、宝塚市の発足を実現しました。

岡田幾は、村長就任時にはその覚悟を、市制誕生時には喜びを、村長辞任時には安堵を俳句に詠んでいます。

(村長就任時)「身をすてて ゆくや茨の 夏の道」

(宝塚市制誕生時)「春光に 産声高し 宝塚」、

(村長辞任時)「戦ひは 終りて安き 日永かな」

 

夫・岡田源太郎

岡田幾の夫の岡田源太郎は紡績業界の重鎮で、内外綿㈱の社長を務めました。地元においては、小林一三が設立した武庫川倶楽部の世話人総代や、戦時中から昭和24年までの激動期の宝塚ゴルフ倶楽部の理事長を務めました。武庫川倶楽部は、小林一三が創設した会員組織で、宝塚ホテル内に事務所が設けられました。会員には、阪急沿線に居住する有力者を募り、会員の親睦とともに宝塚ホテルや沿線の利用拡大を促しました。左は、昭和3311月に行われた宝塚ゴルフ倶楽部の香宝橋の渡り初め式の写真で、岡田源太郎、幾夫妻が先頭を歩んでいます。

宝塚ゴルフ倶楽部・香宝橋渡り初め
宝塚ゴルフ倶楽部・香宝橋渡り初め