昭和3年11月3日、現在の豊中市に生まれた手塚治虫(本名:手塚治)は、昭和8年に家族とともに川辺郡小浜村川面字鍋野(現在の宝塚市御殿山)の祖父の別邸へ引っ越し、昭和27年に上京するまでの約20年間を宝塚で過ごしました。
父親の手塚粲(ゆたか)が加入していた武庫川倶楽部の事務所があった宝塚ホテルには、家族揃って、食事、パーティー等で度々訪れました。昭和13年に小林一三が結成した武庫川倶楽部は、阪急沿線の有力居住者を対象とした会員組織で、会員の親睦を主目的としましたが、阪急グループ施設への利用促進が狙いであったようです。昭和18年の会員名簿には次のように記されています。「手塚粲 住友金属㈱ 兵庫縣川邊郡寳塚御殿山(電寳塚五二五)」
昭和21年の宝塚歌劇ファン機関誌への投稿
手塚治虫のプロデビューは、毎日新聞の小学生向け新聞「少国民新聞」に、昭和21年1月より連載開始された四コマ漫画「マアチャンの日記帳」とされています。下は、プロデビュー直後の21年9月の「宝塚ふあん」第5号(「全国宝塚会」発行)に掲載された手塚治虫作のカットです。「宝塚ふあん」の目次には、「漫畫・カット 手塚治虫」と案内されており、上記以外のカットも描かれています。
昭和21年「宝塚ふあん」の手塚治虫作カット
治虫の昭和21年7月6日の日記には、「昼から園田まで「全国宝塚会」の会誌編集のお相伴で」と、発行元を訪ねた記述があります。「宝塚ふあん」は21年5月に創刊されましたが、初期は、装幀、カット等で、手塚治虫の手を借りたようです。なお、全国宝塚会は、宝塚歌劇を愛好支援する目的で結成された会員組織で、会の機関誌として発行された「宝塚ふあん」は、平成16年頃まで発行されていました。
昆虫館と近隣に居住していた岩谷時子
手塚治虫は、小学校5年生の頃、平山修次郎の昆虫図鑑「原色千種昆蟲圖譜」を見て、オサムシ類が、目がギョロっと、鼻が大きく、自分に似ていることから、治虫(オサムシ)をペンネームとして使い始めました。居住していた御殿山周辺は自然に恵まれたところで、治虫は同級生とともによく昆虫採集に出かけ、昆虫マニアになりました。
そのような時期、昭和14年8月に宝塚昆虫館が宝塚新温泉に開館しました。昆虫館は、約五千種類の昆虫標本を陳列するとともに、生きた昆虫の飼育状況も観察できる画期的な施設でした。治虫は、昆虫館に通い詰め、昆虫の知識を深めていきました。
新温泉にあった昆虫館
手塚邸の近くの上川面には、治虫在住時と重なる昭和13年~26年、越路吹雪のマネージャーで、大作詞家となった岩谷時子が居住していました。西宮から、父母とともに宝塚に引っ越した岩谷時子は、宝塚少女歌劇団出版部の「宝塚グラフ」の編集に携わる中、生涯のパートナーとなる越路吹雪と出会いました。戦争が始まると、越路吹雪は岩谷邸で過ごすようになり、戦後、上京するまで同居していました。岩谷時子の自伝「愛と哀しみのルフラン」によると、当時、『宝塚は、夜、静かになると「タカラーヅカー、タカラーヅカー」と駅員のまでと声が家どき、宝塚植物園に飼われたあしかが「アーウ、アーウ」と、なくのが、きこえる。』と記述しています。
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