近代宝塚歴史紀行

カテゴリ: 宝塚温泉

明治40年8月15日大阪經濟社発行「大阪經濟雑誌(第15年第8号)」(後の日刊紙「大阪朝報」)には、「寶塚紀遊」というタイトルで、大阪經濟社大槻天海編集長、大島實太郎弁護士親子、岡部亞洲の4名が旅館壽樓(寿楼)に宿泊し、千歳橋、丁字瀧、隧道等周辺を散策した紀行文が掲載されています。
 千歳橋については、大正5年7月10日付の大阪朝日新聞(神戸附録)には、大阪の時計商石原久之助が武庫川北岸の旅館寿楼の裏手に炭酸泉温泉を新設するに当たり、同所から向い岸の見返岩へ千歳橋を計画し、炭酸泉温泉は実現できなかったが、千歳橋は石原久之助の援助の下、架橋出願中であると報じていますが、この紀行文では千歳橋、丁字瀧、隧道は寿楼が私設したと記載されています。また、隧道の中には、床几が置かれ、茶菓を提供する売店もあったと記載されています。
千歳橋、丁字瀧、隧道の私設の件については、筆者が寿楼に滞在していることから、寿楼の主人か従業員から聞いた話と思われます。
 丁字瀧は、「寳塚温泉案内」は丁子ヶ瀧と表示されていますが、絵葉書では、丁字瀧、丁字ノ瀧と記載されているものが多く見られます。昭和時代初期には長壽ヶ瀧と称された時期もあるようで、滝の側に「長壽ヶ瀧」の碑、茶亭に「長壽亭」の提灯が写った絵葉書があります。

大阪經濟雑誌(第15年第8号)掲載「寶塚紀遊」の興味深い点は下記の記事です。
宝塚紀遊1.隧道は、ただ納涼のために作ったものであるが、千歳橋、丁字瀧とともに寿楼主が私設した。
原文は以下の通りです。
「歩を轉じて西に周り隧道に入る、其の名を知らず、此は只納涼の為に特にしつらへたるものにして、先きの千歳橋丁子瀧と共に壽樓主の私設にかゝるものなりと云ふ、樓主の之等建設の動機が全く自己の利益に出でたると、公共の為にせしものとを問はず、寶塚の地之れが為に遊覧の場所を添へたるものと云ふべく、大に徳とする處なかるべからず、吾人亦之を偉なりとす。」

2.丁字瀧の茶亭に休憩したが、混みあっていた。蒸し暑かったこともあり、寿楼が築造した隧道に入ったら、夏でも寒い心地だった。暗い隧道の中央に置かれた床几に腰掛ければ、涼しかった。売店があったので、お茶、お菓子を喫した後、退出した。
 (隧道には特に公式の名称はなかったようで、この紀行文では涼風洞とか、寿隧道(ことぶきとんねるとルビ)と記載していることから、単に「丁子瀧のトンネル」と呼ばれていた可能性が高いと思われる。)
 原文「當壽樓主人の創意により義侠的に懸り居れる丁字瀧の下に至り、纚々然として丁字形に繽粉たる白玉の飛び來るを歡迎しつゝ、茶亭に休憩せしが男女雜沓して其の喧々の煩熱と擾々の俗氛を厭ひ、冷蔵庫に入りたき場合幸に又々例の壽樓主人の築造せられし壽隧道の中に入るを得て、夏尚ほ寒き心地のする儘に暗々冥々たる中央の床几に腰打掛くれば霜軀氷心の感に堪へず、其處なる賣店にて茶菓を喫して悠々辭した。」

3.柳橋(ナチュールスパ斜め前の塩谷川に架かる橋)は、素木のままの方が良いのに青いペンキを塗ってあり、俗っぽく、雅でない。

原文「更に踵を廻へして峡崕の山道を辿りて寶塚の邑に至る、入口に柳橋あり塗るにペンキを以てす、俗氣厭ふべし、素木のまゝにせば却って雅にして似つかしかるべきに、なぞ世の人々は心なきなど思ひつゝ歩める間に寶來橋の頭に立ちぬ。」


4.宝塚は人家もない所であったが、尾形源四郎という人がこの地に着目し、付近の土地を買い占めたが、後に持ち切れず人手に渡してしまったが、今日は繁栄し土地の価格は当時に比べ10倍から20倍に達した。尾形源四郎は、種々の新事業を企てたが、成功を見ず最近亡くなった。

原文「抑も寶塚は昔鹽が淵とて河水深潭を堪へ、草木生茂り人家もなき處なりしが、尾形源四郎なる人之に着目し、附近の土地を買占めたるも持ち切れずして人手に渡せしに、後終に今日の繁榮を見るに至り土地の價格の如きは當時に比して十倍二十倍に達せりと云ふ、尾形なる人は其後も山嶺を開拓し(今日櫻田新田と稱するもの廣さ三町歩なりと云ふ)種々の新事業を企てしも一も成功を見ずして先年身まかりしとなん、あな哀れなる話ならずや。」


(舞台となった千歳橋・丁子瀧・隧道)
 当時の宝塚温泉は宝来橋の南詰周辺が中心街で、寿楼は中心街から外れていることもあり、もし、千歳橋がなかったら、丁子瀧へのアクセスが宝来橋経由になるなど立地的に大きなハンデとなり、また、立地的に丁子瀧は寿楼にとって最大の観光資源であったと考えられるため、千歳橋、丁子瀧、隧道の築造に関し一部費用負担した可能性は高いと思われます。
千歳橋周辺地図(昭和10年6月発行)大日本帝国陸地測量部
寿楼から千歳橋の北詰までは徒歩数分程度ですが、宝塚温泉の中心地、宝来橋へは遠く、不利な立地となります。丁子瀧は千歳橋の南詰のすぐ傍になります。(昭和10年6月の地図を加工しています)
寿楼と千歳橋
千歳橋と寿楼(本館)
千歳橋は大正10年5月に完成し、昭和20年の夏に台風による武庫川増水で流失しました。

寿楼

4名が宿泊した後の時代の旅館寿楼正面






(明治・大正時代の丁子瀧と茶亭)  (現在の丁子瀧)
  
丁字ノ瀧現在の丁子瀧 1













 (明治・大正時代の丁子瀧隧道北側開口部) (現在の丁子瀧隧道の南側開口部)
摂津宝塚丁子ヶ瀧隧道現在の丁子瀧 ・隧道3(2の一部)丁子瀧の右手奥に隧道(トンネル)があり、岩を貫通して、生瀬方面の本道に合流します。現在、土砂で半分埋まっています。北側開口部は建設会社の作業所内にあるため入れません。


(明治・大正時代の見返橋と丁子瀧への階段)
見返り岩 (2)
見返橋の手前左側の階段を下りていくと丁子瀧に達しますが、4~5メートル程度下りる必要があるため、滝へのアクセスの高低差が小さい隧道を利用する人も多かったと予想されます。






  (昭和初期の丁子瀧)
 丁子瀧
昭和初期の絵葉書と思われますが、茶亭には「長壽亭」という提灯、滝の右側の石碑は下部が隠れていますが、長壽と書かれていますので、多分「長壽ヶ瀧」と書かれていると思われます。









  (明治時代の柳橋)            (現在の柳橋)
手彩色拡大IMG_0922柳橋はナチュールスパ斜め前の塩谷川に架かる橋です。左の明治時代の柳橋は手彩色絵葉書ですが、手彩色は実際の色と異なるケースも多いため、実際の色かどうか不明です。



  
































明治20年11月13日の大阪朝日新聞に、大阪緒方病院の髑髏庵居士(ペンネーム)さんが開業したばかりの宝塚温泉への訪問記を投稿しています。初代温泉場の開業は明治20年5月5日なので、温泉開業後半年も経ていない段階の見聞録です。当時の宝塚温泉の温泉場、旅館等を窺い知ることが出来る数少ない、貴重な記事と言えます。


髑髏庵居士(ドクロアンコジと読むのでしょう)さん宝塚温泉見聞録の要点は次の通りです。  


(温泉場)

初代の温泉場は浴槽に中隔(仕切り)を設置し、男女を区別していたと記載されていることから、男女混浴であったと思われます。山麓の所々に飲料に適した炭酸泉が湧出していたようですが、山麓とは紅葉谷を指していると思われます。

1.浴室は3室あり、上等、中等、下等の3等に区別している。

2.各浴室の浴槽は6尺(1.8m)の四角形で、深さは3尺余り(90cm)。

3.浴槽には中隔があり、男女浴槽を区別している。

4.上等室には子宮洗浄室がある。

5.温泉については、岩石の間から湧出する泉水を畜槽に満たせて、これを浴槽に引き蒸気鑵(ボイラー)で温めている。温度は摂氏40度内外である。

6.山麓の所々に炭酸泉が湧出し、飲用に適している。
初代温泉場・手彩色カット
初代温泉場








(旅館)

北柳亭(ほくりゅうてい・後の栄山)が最大の旅館と述べており、北柳亭が当時存在していた分銅家、辨天楼よりも規模が大きいと感じたようです。 前ブログで、この新聞の1か月前に掲載された宝塚温泉の保生会社と分銅家等3旅館の連名広告をご紹介しましたが、そこには北柳亭の旅館名はありませんでしたので、北柳亭は保生会社系の旅館ではなかったと思われます。規模からも、北柳亭は分銅家、辨天楼、満壽亭にとっての最大の競合相手であったと思われます。

 魚料理は、海から遠いので、春夏は鮎、秋冬は鯉が多く使われたのでしょう。

1.最大の旅館は北柳亭(後の栄山)

2.飲食物の多くは伊孑志村より運搬されており、魚は鯉が多い。

(町)

12戸の人家の内4戸は旅館と記載されていますが、旅館は北柳亭、分銅家、辨天楼、満壽亭の4戸だったと考えられます。分銅家、辨天楼、満壽亭は温泉場開業時に既に存在したことは文献に残っていますが、北柳亭については、温泉場開業時に既に営業していたかは不明です。

1.宝塚の人家は12戸で、その内4戸は旅館。

2.宝塚へは神崎(尼崎)から4里、西宮からは2里余りで道も便利である。但し、西宮からは坂、砂川があって、人力車を下りなければならない。


  (寳塚温泉の記  大阪緒方病院 髑髏庵居士による寄稿) 

13合成

明治20年11月13日大阪朝日新聞付録



髑髏庵居士は宝塚温泉が新設したと聞き、ぜひ訪れたいと思っていたが、忙しくて行けなかったが、たまたま1日空いたので、友達と宝塚温泉を訪ねることが出来た。ここに浴場の景況を記しますので参考にしてくださいという前文で始まっています。
宝塚温泉の記 大阪緒方病院 髑髏庵居士

余かつて宝塚温泉の新設あるを聞き一遊を試みんと欲するも常に業務のために未だその意を果たさざりしがこのごろ偶々一日の閑を得たりいささか浴場の景況を記して世人の参考に供せんとす。

 宝塚温泉は兵庫県摂津国武庫郡伊孑志村六甲山の麓生瀬川の南岸字宝塚にあり  土地高燥気候温暖風景頗(すこ)ぶる佳なり  神崎を距(さ)る四里西の宮より凡(およ)そ二里余 車馬の通路共に便なり 但西の宮よりするときは一二の小阪沙(すな)川ありて車を下る不便を感ずるのみ 人家12戸にしてその4は旅店なり 而して最大なる者を北柳亭(ほくりゅうてい)と云う 飲食物は多く伊孑志村より運搬し来り 魚類は鯉魚(こい)多し 該温泉の淵源を探索するに昔時足利義晴の時代に村中一媼(老女)あり 悪瘡を病み平素尊心する所の観音の夢告に因て この泉を発見し浴して病癒(い)ゆ云々日本鑛泉誌に見えたり 後土人汲取て自家の浴用に供すること久し 然るに昨年五月有志者相謀り茲(ここ)に浴場を新設し普(あまね)く浴客の便に供するに至れり その浴所に三個の浴室あり 上中下の三等に区別す 各室に方形六尺深さ三尺余の浴槽を設置し槽に中隔あり男女浴槽を区別せり 上等室には子宮洗浄室あり 而して他の二等に之なきは遺憾と云うべし 山麓岩石の間より湧出する所泉水を畜槽に満て之を浴槽に引き蒸気鑵を以て温むる者にして 温度は大抵摂氏40度内外にあり その傍に冷浴室あり又山麓の所々において炭酸水湧出し飲用に適す 泉質は内務省試験によれば炭酸泉にして食塩の多量なるが為め強鹹(きょうかん)を有す 今成分及その量を示せば左の如し
1.格魯兒仕那篤留母(クロールナトリウム)   17.05989
1.炭酸那篤留母(炭酸ナトリウム)          1.68411
1.格魯兒加留母(クロールカリウム)        1.1532
1.重炭酸加兒叟母(重炭酸カルシュウム)     2.32547
1.重炭酸麻倔涅叟母(重炭酸マグネシウム)   0.29109
1.硅酸(けいさん)    0.08537
1.硼酸(ほうさん)     僅量
1.礜土(ヨード)       0.04593
1.格魯兒(クロール)   著明
1.重炭酸亜酸化鉄    微量
1.炭酸            多量
1.有機物          少量
以上の分析表により考うるときは 炭酸泉にして鉄分の量実に微量なり 然るに余輩が該温泉の模様を見るときは泉水涵濁赤茶褐色を呈し あたかも鉄泉の如き外観をなす 蓋し聞く所によれば泉源に多量の鉄粉を埋めしとありと 果してその説をして信ならしめば該温泉は天然鉱泉を変じて人工に含鉄炭酸泉となしたる者の如し そもそも温泉の効用たる泉質の化学的成分に基くとは甚だ鮮少にて外物の関係例令(とえ)ば浴客の旅行居住の変換浴場の模様等多くは閑雅幽邃樹木蒼鬱新鮮の空気に浴し 自ら山水の景ありて精神を養わしむるにあり 然るに人工を以て泉質を変ずるが如きは天然の効用に戻るものと云わざるを得ず 然れども今該温泉の効用を述ぶれば左の如し
(1)貧血、痔血、萎黄病、白血病、脾臓腫脹壊血病 (2)依卜昆挃里、歇利帝里、消化不良 (3)胃痛、三叉神経痛及腰臀痛 (4)未だ月経を見ざる婦人の鬱憂症、胃弱に因する全身疲労

明治20年5月に温泉場が開業しましたが、同年10月11日の大阪朝日新聞に「寳塚天然温泉廣告」として、温泉場を経営していた保生会社と辨天樓・満壽亭・分銅家の3旅館が連名で広告を掲載しています。 
11
(寳塚天然温泉廣告)
(掲載新聞)
 1887年(明治20年)10月11日大阪朝日新聞

 広告は明治20年9月付になっています。



下記の通り記載されています。
『 〇西ノ宮より二里余北 〇神崎より三里余北
〇宝塚天然温泉広告
兵庫県下武庫郡伊孑志村宝塚天然温泉の儀は 古来より患者に功験あること世人の能く知り給う処なり
然と雖も公然之れに入浴せしむるの構造及療養場のなきを遺憾に堪ず 明治十八年以来有志者協力し
今や内務省試験所成績且従六位高橋大先生の功能試験の好結果を得 弥其功験の著きこと明瞭たり
依之衛生上適当の入浴場及療養箇所に至る完全せしめ以て宏く諸彦に告げ 速に入浴御加養あらんことを祈望す
 但宿泊料其他不正の所為有之片は本社へ御通報相成度速に処分可致候
  明治二十年九月 宝塚温泉 保生会社
 
〇入浴客諸彦に告ぐ
宝塚温泉入浴御客様方従来御療養宿料一定不致為めに 御不便を醸し何共恐縮仕候依之
今般本社の許諾を得 同業者組合申合左の値段付の外一切冗費を省き可成御便利を図り候間
陸続御入浴御保養あらんことを伏て奉祈望候
 〇並上等 一泊 金二十五銭  〇中等 同   金二十銭  〇下等  同  金十五銭
 但下女下男の者へ御心付等一切不申受候
  
辨天楼  満壽亭  分銅家
  〇西ノ宮より人力車一人乗金十五銭  〇神崎より同斷金十六銭定
 

上記「寳塚天然温泉廣告」から次の事実が判明しました。

1.明治20年の温泉場開業時の旅館・桝屋とは満壽亭のことである
分銅家の小佐治豊三郎による明治44年11月3日付「宝塚温泉発見以来の顚末」には、温泉場開業時の旅館は桝屋・辨天樓・分銅家・小寳屋の4軒に過ぎなかったと述べています。小寳屋は掛茶屋で、辨天樓は後の旅館・泉山です。桝屋だけは以後一切の文献に出て来ません。
  今回、大阪朝日新聞の宝塚温泉の広告に桝屋についてのヒントがありました。この広告は温泉場を経営していた保生会社と辨天樓、満壽亭、分銅家の3旅館の連名に依るものですが、この満壽亭が小佐治豊三郎が述べている桝屋であると思われます。満壽は、日本酒に満寿泉(ますいずみ)といブランドがあるように、” ます”と読まれるケースは多く見られます。当初の旅館名が桝屋で、その後変更したか、小佐治豊三郎が満壽亭を簡略化して桝屋と記載したと思われれます。

宝塚温泉 満寿亭
左は以前のブログ「宝塚温泉場開業すぐの浴客宿の案内広告」で紹介した明治21年の「満壽亭」の広告です。







.温泉場開業以後の新設旅館への競合対策として、開業時に既に進出していた辨天樓、満壽亭、分銅家の3旅館が温泉場を経営している保生会社の公認旅館であることを示すとともに、3旅館の料金を統一し、公示することにより、お客様の便宜を図り、集客強化を狙ったと思われます。
広告には、保生会社により「宿泊料その他で不正をがある場合は保生会社に連絡ください」と、また、辨天樓、満壽亭、分銅家の3旅館により「宝塚温泉入浴のお客様につきましては宿泊料が一定していなかったため、不便をお掛けしました」とお詫びしています。温泉場開業後に進出し、しかも、保生会社の出資者ではないと思われる旅館・北柳亭(後の栄山)等との競争が激化してきたものと思われます。
  同業者組合という表現が出ていますので、保生会社系列の旅館で組合を既に結成していたことが分かります。

3.辨天樓、満壽亭、分銅家3旅館の統一宿泊料金は、一泊につき並上等で25銭、中等で20銭、下等で15銭と公示しています。また、宿泊料金以外の下女下男のへの心付等は不要であると添えています。

旅館分銅家の初代館主の小佐治豊三郎は岡田武四郎、田村善作とともに泉源を見い出し、温泉場を開発した宝塚温泉最大の貢献者であり、分銅家は宝塚温泉の開場(明治20年5月)とほぼ同時期に開業し、宝塚温泉の歴史を背負い、歩んできた旅館です。しかし、宝塚温泉の開湯100周年を待たず昭和58年2月にひっそりと閉館しました。分銅家の跡は湯本台広場等になっています。
  分銅家は、宝塚温泉の中心、高台にある大型旅館であったため、明治時代から絵葉書等に数多くの写真が残っています。分銅家の右隣には土産物店のほか、理髪店も見受けられます。

 (分銅家正面)写真
分銅屋この絵葉書は明治30年台中頃と思われます。分銅家の右隣もまだ店舗ではなく、物置のようです。石垣のトンネルをくぐったところに正面玄関があります。
本通りからトンネルまでが坂道になっていますが、これ以後の絵葉書は階段に変わっています。
高い石垣は分銅家の建築当時既に存在していたようで、分銅家建築以前の道路造成時の擁壁ではないかと推測されます。



分銅屋 (3)阪鶴線と印刷されています。阪鶴線は明治40年に国有化されていますので、この絵葉書は明治30年代後半と考えられます。
トンネルの入口上部に電燈が設置されています。

右隣の店舗の軒上には「理髪師」の看板、引戸には「髪床」と表示されており、理髪店があります。現在同じ場所に理容の老舗「ヘアーサロン前田」があります。
2階の左側には「松涼庵」の大型看板が掛かっています。

分銅屋 (2)
(分銅家の南側のエントランス)









分銅家の右隣の土産物店は、旧温泉場、宝来橋のすぐ傍で、また、新温泉側からも宝来橋を渡り、旅館に向かう際に必ず突き当たる立地であるため、土産物店としては絶好の場所と言えます。このブログで紹介しています絵葉書・写真類もこの売店等で販売されていたと予想されます。
分銅屋 (本通り)
上の絵葉書より後の時代の写真です。分銅家の右隣に商店が写っています。左端が理髪所で、右に3店土産物店が並んでいます。2階部分の大型看板は、右側が「寳塚鑛泉湯乃花・中野寳泉堂」、中央は「立美家」と読めます。軒の看板は「寳塚名産」「みやげ物」等の看板が掛かっています。





分銅屋と土産物屋

右側の提灯の文字は「友金」と思われます。提灯の下には絵葉書らしきものが吊るされています。軒の看板は「寳塚名産 水飴・山椒 中野商店」と読めます。
土産物店の最も分銅家寄りの角の箱は郵便ポストと思われます。


分銅屋 (風景印)
「分銅家スタンプ」(明治~大正時代)

宝塚へ一度は御越し。黄金色のしたお湯がわく。
摂津寳塚・御旅館、内湯、御料理「分銅家」




読売新聞阪神支局編の「ふるさと春秋-阪神間の歴史散歩-」には、分銅家閉館後に分銅家の4代目であった小佐治楢正氏から伺った分銅家、宝塚温泉の追憶話が記載されています。
 分銅家は、「軒がわらの一枚一枚に刻まれた「分銅」の紋」「内庭に池があり、その上に架けられた渡り廊下で十四あった客室や五十畳の大広間などと結ばれていた。池は近くの塩谷川から清水が引き込まれ、コイが群泳していた。」
 「楢正は実父米太郎、叔父豊一のあとを受け、昭和三十一年に四代目を継いだ。」「以前は、宿に着いた客は、浴衣に着替え、駒下駄(こまげた)をひっかけて武庫川にかかる宝来橋の南詰の共同浴場へヌカ袋やせっけん持参で足を向けた。湯は塩辛い味がして、飲用にもなった。(略)料理は会席で、七品。夏ならアユが出た。芸者も百人はそろっていた。検番のほかに、北井席、豊田席、田中席などで待機し、旅館からお呼びがかかると、利休下駄をカラコロと響かせながら、湯の町の小道を小走りに急いだ。」
 幼時に楢正が見た祖父豊三郎は「ひげをはやし
、よく大黒柱を背に長火鉢の前にどっしりと腰をおろしていました。しかし、行動の人でしたね。家族の知らない間に満州やロシアまで出かけ、大騒ぎになっていても意に介さなかった。」

  (戦前 パンフレット)
分銅屋1分銅屋2









(参考文献)
昭和63年2月28日読売新聞阪神支局編中外書房発行
 「ふるさと春秋-阪神間の歴史散歩-」










迎宝(寳)橋は、明治43年3月に宝(寳)来橋の武庫川下流に架設されました。当時は、まだ宝塚大橋は架設されていませんので、武庫川両岸の連絡は宝来橋1本のみでした。迎宝橋架設の最大の要因としては、小林一三により宝塚新温泉が明治44年5月1日開場した結果、新温泉利用客のために名所塩尾寺・宝梅園方面への観光ルート及び旧温泉への利便性確保が必要になったためだと考えられます。
  迎宝橋は度々水害で流されましたが、昭和25年9月に襲来したジェーン台風により流出した後は、宝塚新橋(架け替えられた現宝塚大橋が二代目)が架けられていたこともあり、再建されませんでした。
 迎宝橋が写った絵葉書はほとんどが旧温泉側からの写真で、新温泉側からの絵葉書は希少です。また、迎宝橋が架設されて間もない頃の絵葉書は数少ないですが、松月楼(樓)の絵葉書に迎宝橋架設当時から差ほど遠くない時期の新温泉側から見た迎宝橋が写っています。
 松月樓は寳塚案内誌(大正2年3月発行)、攝北温泉誌(大正4年1月発行)には紹介されておりますが、寳塚温泉案内(明治36年7月発行)、寳塚沿線名勝誌(大正9年12月発行)には記載されていないため、営業期間は明治末期~大正初期の短期間であったと思われます。

(迎宝橋と松月楼)明治末期~大正初期
松月楼1大正9年発行の「寳塚沿線名勝誌」には「新温泉裏手に架せる迎寳橋は、猶此珍しき一本杭式なれば、注意して見落し給ひそ。」と記載されていますが、この絵葉書では二本杭となっています。同時期の宝来橋と同じ杭工法となっています。川向の右中程の川岸近くに建っている旅館が「松月楼」です。「旅館・御料理・初月樓」の看板が屋根の上に立っています。



(2本杭の宝来橋)
宝来橋2本杭
左の写真も明治末から大正初期の宝来橋ですが、橋の構造(橋杭2本と橋杭間のクロス補強)が上の迎宝橋の写真とそっくりです。






 (旧温泉から見た迎宝橋と新温泉)
迎宝橋と新温泉
上の2枚の絵葉書と余り遠くない時期と思われますが、手すり、橋床が木製で、橋の中程には大石が3個載せられています。大石は武庫川の増水による橋の流失を防ぐために講じられたものと思われます。






(松月楼絵葉書)
松月楼3松月楼は、寳塚案内誌、攝北温泉誌には紹介されていますが、大正9年発行の寳塚沿線名勝誌には紹介されておらず、電話番号38は福徳樓で登録されています。
 〇寳塚温泉案内(明治36年7月発行)   未記載
 〇寳塚案内誌(大正2年3月発行)     記載(電話 寳塚38番)
 〇攝北温泉誌(大正4年1月発行)     記載
 〇寳塚沿線名勝誌(大正9年12月発行) 未記載



 (「寳塚案内誌」の松月楼の立地)赤でマークした場所
宝塚案内誌地図(松月楼マーク)宝塚案内誌地図拡大(松月楼マーク)









(その後の迎宝橋の絵葉書)

(大正末期から昭和初期の迎宝橋)  門樋楼から見た迎宝橋       

コンクリート・手すり杭は鉄製 
正面は新温泉。







 (昭和13年7月の阪神大水害時の武庫川増水による流失写真)
迎宝橋流失









 (迎宝橋親柱)現存写真
迎宝橋 現在
迎宝橋はこの親柱の数メートル上流に架かっていたそうです。
(朝日新聞2003年6月21日阪神版)

このページのトップヘ