近代宝塚歴史紀行

カテゴリ: ウィルキンソン・タンサン

  「A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN」は、イギリスの代表的な出版社であるマレー社が発行した海外旅行ガイド・シリーズの日本版です。 バジル・ホール・チェンバレンとウイレム・ベンジャミン・メーソンの編著で、通称「マレーズ ハンドブック」と呼ばれ、明治・大正時代に訪日した外国人観光客の多くがこのガイドブックを道しるべに日本各地を観光しましたが、1893年(明治26年)発行の第3版に宝塚が案内されています。

マレーズハンドブック 第三版表紙 
1891年(明治24年)に出稿され、1893年(明治26年)に発行された第3版は、459ページからなり、日本各地の観光名所を紹介していますが、この中に宝塚が紹介、案内されています。宝塚が外国人向けに紹介された初めてのガイドブックではないかと思われます。
 








(1893年発行マレーズハンドブック第3版の宝塚の案内部分の記載内容)

 第3版が発行された1893年(明治26年)は、JR福知山線は、まだ、宝塚まで延伸しておらず、宝塚へは、東海道線の西ノ宮駅で降りて、人力車を利用するケースが多かったようです。

マレーズハンドブック 第三版 11.宝塚(宝塚ホテル:洋風)、西宮駅から人力車で1時間。ここは、良質の鉱泉浴場ときれいな散歩道があります。特に、荒神さんとながはま(中山の間違いと思われます)のお寺への散歩道がきれいです。




(1913年発行マレーズハンドブック第9版の宝塚の案内部分の記載内容)和訳のみ記載

「9.宝塚(宿泊:タンサンホテル)は、2種類の鉱泉であるタンサン水(優れた飲料水)と仁王水(塩分、鉄分を含み、便通に良い水。また、入浴用に温めて使っても良い)で有名な、心地よい保養地です。観光客は、タンサンホテルから歩いて20分程の距離にあるタンサン工場をくまなく案内される。宝塚は、神戸から列車で、神崎駅(現尼崎駅)経由で1時間半で到着します。電車で梅田駅(大阪駅)から乗り換えなしで2時間弱。また、電車で、西宮東口へ、西宮東口より人力車で50分。」

第9版が発行された1913年(大正2年)には、JR福知山線が宝塚まで延伸しており、また、箕面有馬電気軌道(現阪急)が、宝塚まで、全通しており、両駅からのアクセスも、案内されています。

ウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンが建設、開業したタンサン・ホテルは、どこにあったのでしょうか。明確な資料はありません。しかし、書誌、写真から下記の場所、建物と断定することができました。

「宝塚温泉の今昔」の記載内容
 昭和14年6月に発行された「宝塚温泉の今昔」(著作:牧田安氾、発行:河津積善)に「而して同(明治)二十五年頃には、傍ら炭酸ホテルと名づける欧風建築をなし、現在の分銅家の上部に異彩を添え、頻りに外人を招いて、我が寶塚発展の為、大いに尽くす処があった。」とタンサンホテルは分銅家の上にあったと記載されています。

「寳塚案内誌」の地図
 下の地図は、大正2年3月に発行された「寳塚案内誌」(藤井忠徳著・発行)に記載されている宝塚温泉の旅館案内地図です。上部中央の分銅や(分銅屋旅館)の上に「ホテル」と記入されています。ホテルとは、「タンサン・ホテル」に違いありません。
       タンサンホテル 地図
 









「宝塚青年会相撲大会の番組」の記載
 下は、昭和7年5月5日に開催された宝塚青年会相撲大会の番組ですが、「場所 分銅家上空地(元ホテル跡)」と記載されています。上の地図と合致します。

       相撲大会会場(ホテル跡)

これが、タンサン・ホテルだ。

「明治20年代後半の写真」におけるタンサン・ホテル
タンサンホテル 想定建物写真上記の資料に基づき、左は「明治20年後半の宝塚全景」の写真の一部ですが、宝塚旧温泉の上部が分銅家旅館で、その上の建物がタンサン・ホテルと断定することができました。
 この写真を見ると、建物が洋風建築であることが分かります。

     (拡大写真)    タンサンホテル 想定建物写真拡大

ウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンは、タンサン水の販売を拡大する方策として、品質管理において万全を期していることをアピールするために、国内外の商社、要人を積極的に紅葉谷、または、生瀬にあった工場への視察に招聘しました。その際の宿泊、接待場所として、タンサン・ホテルを建て、活用しました。タンサン・ホテルの開業は明治23年、24年頃と思われます。

(マレーズハンドブック第3版のタンサン・ホテルの広告)
 1893年(明治26年)に発行されたマレーズハンドブック(「A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN」(Third Edition))に、タンサンホテルの広告が掲載されています。
 タンサンホテルは、海外、外国人向けには、TAKARADZUKA HOTEL(宝塚ホテル)を使い、日本向けには、炭酸ホテルをホテル名として使用しました。

 
マレーズハンドブック第3版で初めて、本文に宝塚が案内、紹介されていますが、この広告のホテルが宝塚に所在する関係で、宝塚が紹介されたと考えられます。
 外国人への宝塚観光に、John Clifford Wilkinson(クリフォード・ウィルキンソン)は、大きな貢献を果たしました。

マレーズハンドブック 第三版 (HP用)

(タンサン・ホテルの広告訳)
「この最高級ホテルは、丘の中腹の健康的な場所にあり、また、素晴らしい魅力的な
風景に囲まれています。さわやかな自然のため、医療機関によって、療養地として推薦されています。ホテルと隣接して、健康に良い有名な温泉があります。
最高の品質のワイン、ビール、スピリッツとともに一流の料理が手頃な料金で食事できます。
 宝塚は、神戸から鉄道と人力車で1時間30分で行けます。パスポートは必要ありません。 

料金等詳細は、A.HUGHESマネージャーに尋ねてください。」




タンサンホテルは、明治24年出稿、明治26年発行の第3版マレーズ・ハンドブック(「A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN」(Third Edition)で初めて広告掲載され、明治43年貴賓会発行の旅行案内(「USEFUL  NOTES AND  ITINERARIES  FOR  TRAVELLING  in JAPAN」) がホテル紹介の最後となっています。タンサン・ホテルは明治23年~24年に創業し、大正時代中期までに廃業したと思われます。

(タンサン・ホテル:宝塚ホテル全景)
タンサンホテル 1タンサンホテル 2

  (タンサン・ホテルとホテル従業員)  
タンサンホテル 従業員










(タンサン・ホテルの日本人向け宿泊料金)
下記の明治43年2月東京人事興信所編の「吾輩は何処に泊まらう乎」には、寳塚温泉場の旅館の紹介欄に壽樓、分銅屋、喜山、立美屋とともに炭酸(タンサン)ホテルが掲載されています。旅館の宿料が80銭から1円80銭に対し、炭酸ホテルの料金は破格の4円以上となっています。タンサンホテルは、当時の日本人にとって、まず経験のない洋式の宿泊施設であり、また、この高額料金から、日本人利用者はほとんどいなかったと予想されます。

吾輩は何処に泊まらう乎



クリフォード・ウィルキンソンは、明治22年頃狩猟のため立ち寄った宝塚にて良質な炭酸水を見出しました。当初は塩谷川沿いの紅葉谷に瓶詰工場を設け炭酸水事業を創業しましたが、その後販売が増加するとともに宝塚の温泉場の傍にあった炭酸泉源が枯れてきたこともあり、生瀬への工場移転を計画し、明治38年頃工場が完成し、移転しました。
 鉱泉水は、ウィルキンソン・タンサンと名づけ、国内はもとより海外にも販路を広げました。その後、アサヒビールがウィルキンソンの商標権を取得し、生瀬工場閉鎖後、現在は、アサヒビールの子会社のアサヒ飲料が、自社工場にて生産し、販売しています。
工場は、平成7年10月に解体され、今は、マンション群に変わっています。

(宝塚見返り岩あたりから見たウィルキンソン・タンサン生瀬工場)
タンサン工場遠景炭酸水の販売が国内外に増加する一方、宝塚温泉場泉源傍の炭酸源泉の湧出量が不足してきたので、工場を紅葉谷から生瀬に移転しました。
 ウィルキンソンが、生瀬に工場を作ったのは、背後の生瀬山から、炭酸ガスを多量に含んだ鉱泉水脈が通り、豊かな鉱泉水が湧き出ていたからです。



(ウィルキンソン・タンサン生瀬工場全景)
タンサン工場全景
右下の写真は、まだ、武庫川が護岸されていないので、最も古い写真と思われます。
 洋風の工場と周囲の自然環境がマッチし、素晴らしい眺望を作り上げています。
タンサン工場全景最古

(生瀬工場の正面看板の「ESTABLISHED」(設立)の年次は当初1892年でしたが、解体時は1890年に変わっています)
 (解体時)
タンサン工場(現在)
解体時の工場は左の画像の通り、「ESTABLISHED」年次は1890年(明治23年)です。






        (工場完成後間もない頃)
タンサン工場(1892全景)タンサン工場(1892)右はESTABLISHED部分を拡大した
画像です。分かりにくいですが、
1892年(明治25年)と塗装。






パンフ小4(工場内瓶詰作業
上記工場建物内でのタンサン瓶詰作業状況。




ウィルキンソン タンサン工場内瓶詰め(包装・荷造り作業






パンフ小3(ラベル貼り作業





タンサン工場・瓶洗場(手彩色)(洗瓶作業)
タンサン瓶の洗浄風景。





タンサン工場濾過(工場内源泉湧水口)
ここから流れ出た鉱泉水を濾過して、精製されました。





タンサン工場貨物(宝塚駅と生瀬駅の間にあった惣川駅タンサン専用貨物ヤード)
かつて宝塚駅と生瀬駅の間に惣川駅という貨物扱いを主とした駅がありました。この駅は明治38年にウィルキンソンの炭酸水輸送専用に新設されました。大正2年からしばらくは旅客も扱ったようですが、昭和38年に宝塚駅の構内に組み込まれ、その後廃駅となったようです。(朝日新聞阪神支局編・昭和50年11月発行「阪神再見」より)

        「仁王印のタンサンラベル」
トニック・ジンジャー・レモン3種ラベル
タンサン 仁王水ラベル

  

ジンジャエールラベル
タンサン ラベル 2シャンペンサイダーラベル
                



 英国の週刊画報雑誌「THE SKETCH」の1899年(明治32年)7月12日号に当時のウィルキンソン・タンサン工場(作業場)の写真及び記事が掲載されています。生瀬のウィルキンソン・タンサン製造工場は明治38年に完成しましたので、この写真は生瀬に移る前の紅葉谷時代の工場(作業場)と考えられます。紅葉谷とは、塩谷川(宝来橋下手で武庫川に合流)沿いで、塩尾寺参詣道沿いの区域をいいます。

The Straits 全紙
(「THE SKETCH」の1899年(明治32年)7月12日号)
明治時代の宝塚及びウィルキンソン・タンサン関係の写真及び記事が掲載されています。





下は、「THE SKETCH」の下段掲載写真です。
The Straits 写真 タンサン工場
荷車には、TANSANと書かれた木箱が積まれ、建物に続く坂道には従業員が並んでいます。正面の荷車を曳いている洋服の人物はウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンです。下の注釈には、「どのようにして日本人はミネラルウォーターの瓶詰を開始したか。」(HOW THE JAPS HAVE STARTED BOTTLING MINERAL-WATERS)と記載されています。



(紅葉谷時代の作業場の位置)
The Straits 写真 タンサン工場区域大
The Straits 写真 タンサン工場区域小右の写真は赤線で囲まれた建物の拡大ですが、右側建物の正面には、SKETCHの建物写真の玄関ポーチがはっきり確認できます。
 
この絵葉書により、紅葉谷作業場は、現在、湯本町10の元毎日新聞健康保険組合宝塚荘(ライオンズマンション宝塚の向い)の場所にあったと判明しました。タンサンホテルは、この作業場の後方(絵葉書の右上)の高台に位置しており、徒歩2~3分の便利な場所にあります。


(「THE SKETCH」に掲載されていたもう1枚の「宝塚全景」写真)
武庫川下流から生瀬方面への写真と思われます。
後のウィルキンソン・タンサンの生瀬工場付近に焦点を当てているように見えます。

The Straits 写真 宝塚全景

「THE SKETCH」には写真とともに宝塚及びタンサンに関する記事が記載されています。私の拙い訳ですが、ご紹介します。英文も添付させていただきました。
外人向けに、宝塚という地名が”Tansania”に変更されたと記載されています。クリフォード・ウィルキンソンの発想であると思いますが、Tansaniaはその後の資料で見当たりませんので、普及しなかったものと思われます。

(THE SKETCHの記事)
 「今回、私は名高いタンサン・ウォーターが発見された場所付近にある温泉保養地の2枚の写真を掲載した。宝塚は本来の地名ですが、口調が良くて、また、外人が言葉使いにおいて過ちを犯しそうにない”Tansania(タンサニア?)”という地名に変更されています。ここは、丘の上に療養所があり、その下には 塩分や鉄分及び発泡性を有する 温泉場があります。リウマチや消化器の障害で苦しむ人々の多くが、この鉱泉水に浸かり、治癒しています。この地域は、保養地として魅力的なだけでなく、自然美のみで多くの人々を引き付ける魅力を持っています。日本全国の外国人には自然の炭酸ガスを含んだ「タンサン・ウォーター」(天然鉱泉水を瓶詰したもの)が、「ソーダ水」(人工的に炭酸ガスを詰めたもの)よりも、よく飲まれています。その水は、最も近い貿易港の神戸に荷車で運ばれます。”Tansania(タンサニア?)”から神戸までは起伏の多い道のりで、18マイルあります。運送方法は、先頭に去勢牛が、後ろに人間がつく荷馬車で、時間がかかります。

(原文)
 I now give two pictures of a health-resort which has sprung up around the spot where the celebrated Tansan-water is found. Takaradzka is the original name of the place, which has been changed  to  "Tansania,"  as being more euphonious and less likely to trip up the tongues of foreigners.  There is a sanatorium on the hill, below which are the bath-houses where those suffering from rheumatic affections or from disorders of the digestive organs generally receive beneficial relief by immersing themselves in the water,  which belongs to the category of saline, chalybeate, and carbonated mineral-waters.  Not only is this part of the country attractive as a health-resort,  but its natural beauty draws many who are only on pleasure bent.  The Tansan-water when aerated is generally drunk by foreigners through-out Japan in preference to soda-water.  The water is taken on carts to Kobe, the nearest Treaty Port.  The distance from Tansania to Kobe is eighteen miles, over hilly country, and the method of locomotion is not rapid,  being a compound tandem, the wheeler a human being and the leader a bullock.

※ 「THE SKETCH 」は、上層階級や貴族に焦点を当てた英国の週刊画報で1893年(明治26年)2月から1959年(昭和34年)6月まで、2,989部発行されました。左は当時より後の明治30年代後半の宝塚温泉の全景絵葉書ですが、「THE SKETCH」の写真と同一建物を見つけました。赤の線で囲んだ建物です。
上の「THE SKETCH」の写真の建物と同様に2棟が並び、正面左の建物が前面に出ており、また、右の建物正面中央部にはポーチが見られます。

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