カテゴリ: ウィルキンソン・タンサン

ウィルキンソン・タンサンの創業者ジョン・クリフォード・ウィルキンソンの長女エセル・ウィルキンソンの長男で、当時ウイルキンソン炭酸株式会社の代表取締役であったHerbert Clifford Wilkinson Price(ハーバート・クリフォード・ウィルキンソン・プライス)は、1940年(昭和15年)にスパイ容疑で起訴されています。ハーバートは当時29歳でした。主犯とされたロイター通信のイギリス人コックス(M.J.Cox)は昭和15年7月29日、東京憲兵隊本部で取調中、飛び降り自殺を遂げています。

 昭和15年は、日独伊三国軍事同盟が成立し、日本が戦争に突き進んでいた時代で、敵国人であるイギリス人のコックスが実際スパイ行為を行っていたかどうか、疑いが持たれます。ハーバートは、当時、外交官以外の所持が禁じられていたラジオ(短波受信機)を保持していたことから、検挙されたようですが、プライスは、以後、不遇な時代を過ごすことになります。太平洋戦争開戦により、
プライスは神戸の敵国人抑留所に収容され、また、母親のエセルは生瀬の工場の脇の住宅で幽閉生活を送りました。
 ハーバートが、余生をスイスに居を移したのは、戦時中のスパイ容疑の件や自分及び母親の抑留、幽閉状況の中で、日本に対して信頼を失くしたことが要因の一つであったと思われます。

新聞の記事は下記の通りです。新聞社が日独伊三国同盟に反対を唱えることが出来なかったように、当時既に新聞報道は軍部におもねる状況にあり、下記の記事も憲兵隊の取調結果をほぼ流用したものであると思われます。
 昭和15年7月27日にプライスを含めイギリス人主体の16名が一斉検挙されています。その中には、カメロン商会を経営し、塩屋の高級住宅街「ジェームス山」を開発したE.W.JAMES(アーネスト・ウィリアム・ジェームス)とその兄のJ.F.Jamesも含まれていました。
(昭和15年10月1日 大阪毎日新聞 記事)
HCWプライス新聞記事(毎日)一部切抜き
神戸在住英人らスパイで大検挙 海軍大佐ら十名起訴
去る七月二十七日一斉検挙を見た英国系諜報事件はさきに自殺したルーター通信員コックスをはじめ東京、横浜、神戸、下関、長崎において十六名の英国人ならびにこれら英国人の手先となって働いた不名誉な日本人数名を検挙、新聞記事の掲載を禁止して各憲兵隊および検事局で鋭意取調べを急いでいたが取調べが一段落し殊に箱根富士屋ホテル止宿元英国産業連盟代表予備役海軍大佐C・H・N・ジェームス(五六)長崎高等商業学校講師W・P・C・D・トラフォード(五〇)ライジングサン石油会社横浜本社員R・T・ウーリー(四七)ら英国人十名はそれぞれ軍機保護法、要塞地帯法、陸軍刑法、無線電信法各違反ならびに軍用資源秘密保護法違反などの罪名で起訴されすでに七名に対しては有罪の判決が下ったので司法当局は三十日午後五時を期し左の十名に対し解禁を行った、なお残り五名は捜査中でありその他に日本人で起訴されたもの男一名、また留置されて取調べ中のもの女一名、男五名があるがこの事件に関し日本の上層階級者あるいは著名政治家にして不用意の機密提供者として証人尋問を受け、あるいは警告を発せられたもの数十名に達し当局も彼らの外人崇拝熱に対してはだた唖然たる有様であった、これらは法律の不備なるがゆえに辛うじて罪人たることを免れた人々でこれに徴しても防諜法のごときものが一日も早く公布されなければならぬ緊急を痛感されている

この新聞記事の中に、下記の通り、ハーバート・プ
ライスの略歴が記されています。住所の良元村小林字北畠は戦後も母エセルとともに居住した逆瀬川駅の北東、現在の中州地区で、当時、北畠(北畑)という地名でした。デートン大学、セントマーリス大学に学んだとあり、オハイオ州のUniversity of Dayton、ミネソタ州のSt'Mary's University of Minnesotaではないかと思われます。

HCWプライス新聞記事(毎日)

H・C・W・プライス(29)
兵庫県武庫郡良元村小林字北畠四二ノ二、ウィルキンソン炭酸株式社代表取締役、英国人を祖父、日本婦人を祖母とする混血血統者で祖ウィルキンソンは六十数年前渡来し兵庫県有馬郡生瀬村附近で炭酸水源泉を発見するやこれを工業化しついに巨万の富を蓄積するにいたったもので同事業は現在ウィルキンソン炭酸株式会社として経営せられその製造にかかる炭酸水の販売年額は約五十万円に達している、同人は神戸に生れ昭和三年渡来してデートン大学、セントマーリス大学において電気学および化学を専攻、昭和七年帰来し前記会社の代表取締役として現在に至る。(昭和15年10月1日大阪毎日新聞)

(参考文献)
  清水慶一「ウヰルキンソン氏の不思議な工場」(「建築知識(1992年1月号)


 イギリス人のジョセフ・トーマス(Joseph Llewelyn Thomas)は、イギリス・ウェールズの新聞「Western Mail」から委嘱された新聞取材によりアメリカを旅している時、不図この機会に「日出ずる国」日本を見てみたいという生涯の望みを叶えようと思いつき、1895年(明治28年)6月3日にカナダのバンクーバーから汽船「The Empress of India号」に乗船し、日本に向け出発した。横浜から、鎌倉、江の島、箱根、東京、日光、神戸、大阪、京都、有馬、宝塚、奈良、須磨・明石、姫路、岡山、広島、四国(松山他)等北海道、東北、九州地方を除く日本各地を1895年(明治28年)の夏の間に旅行した。ジョセフ・トーマスのこの日本紀行記「JOURNEYS AMONG THE GENTLE JAPS」は、1897年にロンドンのSAMPSON LOW, MARSTON & COMPANY社より出版されました。
 ジョセフ・トーマスは、当時、欧米から日本への旅行客の多くが活用したマレーズ・ハンドブック( HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN)をテキストとして、日本全国を回っています。甲山がビスマルク・ヒルと呼ばれていること等の記載から、マレーズ・ハンドブック第4版(1894年発行)を日本旅行のガイドブックとしたようです。マレーズ・ハンドブック第4版の広告ページには、ウイルキンソン・タンサンとともにホテルの案内が掲載されています。

 ジョセフ・トーマスは有馬から宝塚にも足を伸ばし、宝塚ではウィルキンソン・タンサンの創立者クリフォード・ウィルキンソンにより開発・運営されていたタンサン・ホテルに宿泊し、その際のホテルの印象もこの著書に記載されています。興味深い記述も見受けられます。
 
(タンサン・ホテルとは)
河合教授とクリフォード・ウィルキンソン(切り抜き版) クリフォード・ウィルキンソンは、タンサン水の欧米への輸出を拡大する方策として、欧米の商社、取引先や要人を積極的に工場見学(当初は紅葉谷、後に生瀬に移転)に誘致し、宝塚の環境を含め、タンサン水の素晴らしさをアピールしました。その基地、接待場所及び宿泊施設として、旅館分銅家(現湯本台広場付近)の西奥の裏山にタンサン・ホテルを建て、運営しました。タンサン・ホテルはクリフォード・ウイルキンソンが事業を開始したタンサンホテル 1と思われる明治22、23年頃に創業し、大正時代中期に廃業したものと思われます。(写真左上:ホテル前の庭園(クリフォード・ウィルキンソンはJCWの人物))、左下:ホテル全景、右下:ホテル従業員)
タンサンホテル 従業員







(ジョセフ・トーマスの宝塚・タンサンホテルの印象)
ジョセフ・トーマスは、「JOURNEYS AMONG THE GENTLE JAPS」の中で宝塚及びタンサンホテルについて下記の通り印象を語っています。
  太字部分がタンサンホテルについての記載ですが、畳とメイドさんのみ日本製・日本人と記されているので、その他のホテルの内装、家具、食器、消耗品はすべて洋風、外国製だったと思われます。クリフォード・ウィルキンソンが欧米人の要人が宿泊するに相応しいホテルを作り上げるため、神戸居留地在住外国人向けの商店等から家具・備品・消耗品等を調達したと予想されます。メイドさんについては、上の写真の通り日本人が従事していました。ホテルについては、設備も整い、眺望も良く、また、朝食も美味しかったと記載されており、高水準な洋風ホテルであったと思われます。当時の日本ではトップクラスの洋風ホテルであったと思われます。

                 
 (原文訳) 
(Joseph Thomas写真)   私は昼食の後、約8マイル離れた宝塚に向け出発した。日本人娘が、道を間違えThomas写真ないよう、1マイルほど村のはずれまで私を先導してくれた。雨は旅行中、しばらく降らないでいる。道は状態が良かったが、武庫川の谷に下りる道はジグザグ道であった。景観は、まったく未開のままで、岩は日本でこれまで見た中で、最も火山性の岩であった。私は2~3の村を通り抜けたが、何れも人力車を利用することを勧められた。だから、そのルートを歩いているヨーロッパ人はいません。
 宝塚では、この上なく快適で申し分のない洋式ホテルを見つけ出した。ホテルは、マット(畳)とメイドを除いて日本製のものは何もなかった。廊下、食堂の軒下に作られた燕の巣もまた日本製に付け加えるべきかもしれません。燕は自由に、頻繁に巣を行き来していた。このホテルは見事に設備の整ったホテルで、現状よりもっと多くのお客様を得るに相応しいホテルであThomas本表紙る。お客は私ただ一人であるのに気付きました。また、宿泊者名簿に記載されている宿泊者名も多くなかった。このホテルは週末の休暇のために来る神戸在住者が主な顧客であるようだ。ホテルの立地は大変快適な場所で、ベランダから武庫川流域への眺めは素晴らしい。
  ホテルの近くには評判の高い温泉場がいくつかあります。村は、有馬よりもっと小さいが、有馬ほど山に囲まれてはいない。近くには、神戸の外国人住民から「ビスマルク ヒル」と呼ばれている丘があります。その丘には頂上に4本の木があり、偉大な前首相が頭に4本の毛が生えていることから、そう呼ばれている。丘の輪郭もまた、ビスマルクの頭の上部に似ている。
 翌日、おいしい英国式朝食の後、約2時間で東海道線の西宮駅に到着しなければ汽車の出発に間に合わないために、直ちに旅行を再開した。


(原文は下記の通りです)

「At Takarazuka I found a thoroughly English hotel, as comfortable as could be desired. There was nothing Japanese about it, except the mats and the maids. Perhaps I ought to add the swallows' nests, which clung to the cornices in the corridors and even in the dining-room, and to which their owners had free and unrestricted access. It was an admirably appointed hotel, and deserved a much larger patronage than it seemed to get. I found myself the only guest, and there were not many names in the visitors' book. It seemed to be patronised chiefly by Kobe residents, who went there for a week-end holiday. The sistuation of the hotel is very pleasant, the view of the valley of the Mukogawa from the verandah being charming. Near the hotel are some mineral baths, which are held in great repute. The village is much smaller than Arima, but is not so much hemmed in by mountains. In the neighbourhood is a hill, called by the foreign residents of Kobe "Bismarck Hill,"  from the resemblance of the four trees which are seen on its summit to the four hairs which the great ex-Chancellor is said to have on the top of his head. The outline also of the hill suggests the upper part of the Bismarck's crenium.
 On the morrow, immediately after a good English breakfast, I resumed my  journey, arriving in about two hours at Nishinomiya, on the Tokaido Rilway. The road passed through a stream with the usual wide bed, through which I had to wade, there being no bridge. In the village I met a crowd of the gakko(school), each carrying a little umbrella and a satchel, and looking for all the world as if they had just "jumped off a fan." There was the usual gentle chorus of "Ohayos!" and much curious, but never offensive, gazing at the strange-looking foreigner. Japanese children are never rude  - they are a model to little English barbarians as regards behaviours.」
 (Joseph Llewelyn Thomas著 「Journeys Among The Gentle Japs in The Summer Of Japan」 1897年 SAMPSON  LOW, MARSTON & COMPANY社発行

創業者ジョン・クリフォード・ウィルキンソンの長女エセル・プライス・ウィルキンソンが、「天然炭酸水の始り」というウィルキンソン・タンサンの創業期について語った資料があります。それはエセルが東京清涼飲料協会の協会25周年にあたり投稿したもので、東京清涼飲料協会発行の「日本清涼飲料史」(1975年発行)に所収されています。ウィルキンソンの創業期については、資料がほとんどない中、創業家一族の筆により、創業者の逝去後間もない時期に書かれた「天然炭酸水の始り」は、数字等細かい部分については誤りがあるかもしれませんが、最も信頼に足る資料であると思われます。
  エセルによる英語による寄稿文を和訳したものか、英会話によるインタビュー内容を和訳したものと思われ、表現、漢字に少し疑問な部分があります。


1.当初の炭酸水製造工場とタンサンホテルの場所

エセル・プライスは当初の炭酸水製造工場とタンサンホテルの場所について、下記の通り触れています。
「炭酸水の製造に取りかかったのであります。場所は、旧宝塚鉱泉の「ワキ」で、確か今「ブンドウ屋」と云ふ旅館のある裏手に当ると思ひます。尚ほ亡父は、その側へ「ホテル」を建てて「タンサン ホテル」と命名し、炭酸水の製造と共に兼営して居りました。」
温泉街近辺案内図(ブログ用)私のブログ「紅葉谷時代のウィルキンソン・タンサン工場(作業場)」で、英国の週刊画報雑誌「THE SKETCH」1899年7月12日号における当時の工場(作業場)写真から、その場所が判明しました。工場、タンサンホテル、旅館分銅家(ふんどうや)のそれぞれの場所は、左の地図の通りで、工場(現在の湯本町10-38辺り)、タンサンホテル(現在の武庫山2-4-23コスモヒルズ宝塚武庫山付近)、旅館分銅家(現在の湯本台広場)と想定されますが、エセルの記述内容とも整合していることが分かります。


2.天然鉱泉の発見の経緯と炭酸水製造開始時期
天然鉱泉の発見の経緯は「父が或る日の事、宝塚へ狩猟にまいりました折、ふと天然鉱泉の湧出する処を見出したのですが、其処では其の以前から萩原さんと云ふ方が宝成会社と云ふ「ラムネ」製造会社を経営して居られました。そこで、一応その鉱泉を試験して見ますと、立派な食卓用鉱泉であることが判りましたので、此の宝塚へ移って炭酸水の製造に取りかかったのであります。」と記載しています。
「宝成会社」と記載されていますが、「保生会社」の間違いです。
小佐治豊三郎岡田竹四郎等によって設立され、温泉経営、鉱泉湧出所を経営した保生会社を指していると思われます。萩原とは保生会社の一員で財界の有力者であった萩原吉右衛門と思われますが、この文章から、クリフォード・ウィルキンソンが天然鉱泉を発見した時点で、既に保生会社が「ラムネ」を製造、販売していたと推測されます。昭和14年6月発行の「宝塚温泉之今昔」もほぼ同じ内容が記されており、ウィルキンソンはこの鉱泉を譲り受け、炭酸水事業を開始したと考えられます。

炭酸水の製造開始時期は、「私の亡父クリフォード・ウィルキンソンが此の宝塚へ来て炭酸鉱泉の製造を始めたのは、確か明治22年であったと思う。」とエセルは述べています。「宝塚温泉之今昔」には明治22年にラムネ部の譲渡を受けたとあるため、製造、瓶詰作業を始めたのは翌年の明治23年であったかもしれません。
宝塚温泉の今昔「宝塚温泉之今昔」には、ウィルキンソンの炭酸水事業の草創期について次の通り記載しております。「一方、英人ウヰルキンソン氏は、其の頃、此の地の風光を慕ひ、屡々、狩猟に来宝、岡田武四郎氏等と相知るところとなり、特に炭酸水の天然に湧出して居るのに着目し、之れを洋酒の割水にと、海外輸出を計画し、明治二十二年保生会社より、ラムネ部の譲渡を受け、紅葉谷に工場を設けて、事業を開始した。」
 左は昭和14年6月発行「宝塚温泉之今昔」(牧田安汜著)の表紙
 


3.タンサンホテルの建物は大正10年頃まで残っていた
タンサンホテル 2タンサンホテルは「お客は勿論外人相手で、その「ホテル」の家屋は大正10年頃まで残って居りました。まだ設備などの充分出来なかった当時のことですから、水は一々荷ひ桶で汲み上げて来て、それを濾して使っていたと云ふ有様です。」タンサンホテルは外国人用日本旅行ガイドのマレーズ・ハンドブックへの広告、本文中のホテル案内から、
明治23年頃に創業したと思われます。大正4年に廃業し、タンサンホテルの建物の一部は、大正12年に生瀬の工場に技師住宅として移築されました。タンサンホテルは洋式であったため、また、高額な宿泊料であったため、日本人客はほとんどなかったようです。

4.タンサンホテルは炭酸水の宣伝のために外国船のキャプテンを招待した
「神戸の港へ外国の汽船が入りますと、直ぐに船のキャプテンなどを誘って、宝塚のホテルに案内し、鉱泉を見せて炭酸水の宣伝を盛にやって居りました。」とあり、ウィルキンソンは、炭酸水の販売先としては、ホテル、レストラン及び客船をターゲットにしており、その一環で汽船への炭酸水の利用拡大を図るため、キャプテンを積極的に宝塚、タンサンホテルに招待したと思われます。

5.当初の神戸営業所は海岸通32番地にあった
「尚ほ当時の営業所は、神戸弁天浜(居留地2番館)の「ニッケル,ライン商会」の2階においてありました。」と記載されていますが、1897年発行の「日本貿易商案内」には、NativeBund(海岸通)32 C. Nickel & Co. 、J. Clifford Wilkinsonと記載されています。C. Nickel & Co.の後に記載されているため、2階に事務所があったのでしょう。ニッケル社は後にライオンス社と合併し、ニッケル・エンド・ライオンス社(NICKEL&LYONS CO.,LTD.)となります。「ニッケル,ライン」でなく、ニッケル・ライオンスが正解です。弁天浜は現在の神戸駅の南側の地区ですが、海岸通とも接続しているため、エセルの勘違いと思われる。
ウィルキンソンの神戸の拠点は、海岸通りから、その後明治38年に居留地の京町82番地に移りました。

6.生瀬工場への移転
「炭酸水も大に売れて参り、鉱泉の湧出量が不足を来たしましたので当時平野、森田両氏が発見されました現在のナマゼ山下の鉱泉へ明治37年に工場を移転することになりました。」と記載の通り、マニラ等海外への輸出拡大と共に、国内においては、ホテル、レストランへの販売も拡大する一方、宝塚の鉱泉が枯れてきたため、近辺で鉱泉を探索する中、生瀬に優れた鉱泉を探し当てたと思われる。平野、森田両氏とは、平野彰、森田糺と思われ、両氏とも生瀬村の有力者であり、森田糺は生瀬温泉の開発者であったことから、両氏の協力により泉源、工場用地が獲得できたと考えられる。
  森田糺が開発し、旅館を営業した生瀬温泉は、武庫川支流の太多田川と赤子谷川の合流地点付近の不便な場所に立地したため、明治30年~34年頃までのほんの短期間で営業終了し、閉鎖された。「阪鶴鉄道案内」(明治35年10月発行)に生瀬温泉の泉質は含塩炭酸泉と記載されており、宝塚温泉と成分が類似しています。事前に森田糺等との接触により生瀬温泉の泉質情報も入手していたと思われ、その結果、ウィルキンソンは工場移設に当り、宝塚にも近い生瀬を適地としたと思われます。

7.この投稿は昭和2年前後に執筆された
「父は4年前大正13年にこの世を去りました。」と記載されていますが、ジョン・クリフォード・ウィルキンソンは、実際は、1923年(大正12年)4月15日に死去しています。翻訳者の誤りと思われます。





1920年(大正9年)1月30日付の神戸新聞の連載記事「居留地の今昔」の第16回で、ウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンの談話が掲載されています。クリフォードは1923年に亡くなるので、亡くなる3年前の68歳の頃の談話になります。このブログの「創業者の長女によるウィルキンソン・タンサン沿革史とその検証」の中で、クリフォードの長女エセルの談話は紹介いたしましたが、創業者クリフォード本人の談話は新発見です。
ウィルキンソン神戸新聞記事(大正9年1月)カット
 左が神戸新聞の記事ですが、「寳塚炭酸泉の發見者ウイルキンソン氏の古き追懐談」という見出しになっていますが、前半は、前回連載の続きでP・S・カベルドウの追想談が記載されています。後半にクリフォード・ウィルキンソンの談話が記載されていますが、取り留めのない内容が多く、物足りない内容ですが、天然鉱泉発見の経緯は本人の談なので、重みがあります。
 宝塚の炭酸水の源泉を見つけた切っ掛けについては、長女のエセルは「父が或る日の事、宝塚へ狩猟にまいりました折、ふと天然鉱泉の湧出する処を見出した」と述べていますが、クリフォードも同じく猟の途中に出くわしたと記載されています。



神戸新聞の中で、クリフォードはこのように述べています。

.宝塚の炭酸水の源泉は猟の途中に出くわした
 クリフォードがある日、宝塚の山中で猟をしていた際、喉が渇いて堪らなくなったが、携帯のウィスキーをクーリーが飲んでしまったので、仕方なく谷あいをあちこち探水していたら、思いがけず清冽な水を見つけた。これが、現在経営している炭酸水の源泉地となった。

(原文)
「(私は猟が好きで)或る日宝塚の山中にあって余り飛歩いたので咽喉が燥いて堪らぬけれど携帯のウイスキー瓶を苦力が飲んで了うたので仕方なく谷合を彼所此所と探水した結果、図らず清冽なる水を手に入れた、是が今、私が経営して居る炭酸水源泉地てある。」

2.来日当時の神戸外国人居留地の状況
 41年以前に神戸に来たが、当時から、ある程度の施設が整っており、居留地では不自由を感じなかった。来日当時から、ワイマーク氏(George H. Whymarkと思われる)が外国人向けの飲食料品を供給していたが、今は止めてしまった。居留地には厳重な関門が設けられ、出入りは厳重にチェックされていたが、日本人と居留地の外国人とは最初から円満な関係で、相互往来もあり、隔たりはなかった。

(原文)
「私が神戸へ来たのは四十一年以前で引続き現在迄居留地に出入して居るが特に感想と言うべきものはない、何となれば私が来た時は最早すべての設備も完全と言う程でないが不自由を感じなかったからだ。 (略) 私が来た頃から外人飲食料品を供給して居るのは例のワイマーク氏で今は止めて了うた。日本人と居留地外人との間は最初から円満で厳重な関門なども設けられ出入も日本の役人から綿密に吟味されて居ったけれども、日本人の方も訪問するし外人の方からも尋ねて行って隔意なかった。」

3.当時の神戸外国人居留地の物価
 物価は当時は安く、なみなみと注いだワインが5銭だった。海岸寄りに兵庫ホテルがあったが、昼食が1円50銭で食べられた。もう1カ所のホテルは昼食が1食50銭であった。

(原文)
「併し現在と較ぶれば物価は非常に廉かった、一杯の葡萄酒がナミナミと注いで五銭だった。当時海岸寄の所に兵庫ホテルと言うがあったが、当時の昼食が一円五十銭で食べられた。最う一つのホテルでは一食五十銭(昼餐)であった。」

4.クリフォードは愛猿家であった
 
クリフォードは愛猿家で来日以来、猿を飼っていた。一時、宝塚の自宅では7~8匹飼っていたが、家族に悪戯をしたり、山中に逃走したり我儘な猿が出現し、驚きあきれ、今は1匹だけしか残っていない。

(原文)
「そして同氏は来朝以来、一日も猿を手離したことの無い有名の愛猿家で、一時宝塚の自邸には七八匹の猿を飼養して居ったが、猿公特有の悪戯が屡家人を僻易せしめるのと勝手に山中に逃走する我儘猿ができたりして、遉の愛猿家も到頭我を折って了うた。そして今はタッた一匹丈けしか残って居らない。」

(引 用) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・神戸新聞 都市(01-023)





 














宝来橋が現在のS字橋に架け替えられ、第一ホテルがホテル若水に改築される際、第一ホテルにあった炭酸源泉の石碑及びお地蔵様は塩尾寺の休憩所に移設されました。塩尾寺への参拝道の休憩場所に祠が設けられ、お地蔵様とともに「たんさん水」の石碑が納められました。ホテル若水の小早川社長により復刻された「天然たんさん水 この下あり」の石柱とともに、ウィルキンソン発祥の炭酸源泉の記念碑と言えるものです。

(第一ホテルにあった炭酸源泉の「たんさん水」石碑・お地蔵様)
炭酸泉源(昭和時代)ブログ用

左に「たんさん水」の石碑。
中央下に、お地蔵様。














旧温泉にある炭酸泉(昭和39年)小
昭和39年発行の宝塚市制10周年「宝塚」に掲載された第一ホテルの炭酸泉源の写真。奥に行くと、上の写真の源泉に到達する。最奥にお地蔵様と供えられた花が見えます。


















(現在)塩尾寺休憩所に移設された「たんさん水」石碑・お地蔵様
塩尾寺休憩所たんさん石碑

「たんさん水」石碑




























塩尾寺休憩所地蔵アップ


お地蔵様





























塩尾寺休憩所全景

鳥居の左にお地蔵様と「たんさん水」が納められた祠













塩尾寺休憩所祠

お地蔵様が祀られた祠。
下に「たんさん水」石碑。

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