カテゴリ: 宝塚ホテル

第二次世界大戦の終結とともに連合軍の本土進駐が開始され、宝塚へは昭和20年9月25日アメリカ第6軍第1軍団に属する第三十三師団が進駐を開始しました。宝塚ホテルも、同日、接収されました。
 現在の大阪国際空港も接収され、「ITAMI AIR BASE 」と名付けられ、その部隊の将校宿舎として宝塚ホテルは利用されました。

 
下記の写真は接収当時の宝塚ホテルの写真です。
看板には、「AIR FORCE OFFICERS CLUB」「ITAMI AIR BASE SQDN(squadron)」(伊丹空軍基地部隊の空軍将校クラブ)と記載されています。

接収時代の宝塚ホテル


進駐軍占領時代の宝塚ホテルの看板





  宝塚ゴルフ倶楽部については、翌年21年2月15日付で進駐軍に接収されました。また、宝塚南口から逆瀬川及び仁川地区の高級住宅地も、進駐軍将校用の住宅として接収されました。著名なイタリアン・レストラン「アモーレ・アベーラ」も同じ頃、進駐軍に接収されそうです。これらの個人住宅地の接収は長期にわたり、返還は昭和27年のサンフランシスコ平和条約発効後になったそうです。

 宝塚ホテルの接収は長く続きましたが、ようやく、昭和30年2月14日接収解除され、昭和30年5月21日営業再開された。

日本ホテル協会発行の「日本ホテル略史」の昭和三十年の出来事の中で次の通り記載されています。
 「五月二十日 宝塚ホテルは、二月十四日十ヵ年間に及ぶ接収より解除されたので、自由営業にそなえ加納社長の陣頭指揮下に解除后の整備資金七千万円の融資を受け、鋭意施設の改善整備につとめた結果漸く準備完成を見たので午后二時から四時迄の間関係者多数を招待して再開の披露をした。」「五月二十一日 宝塚ホテルが営業を再開した。」
進駐軍占領時代の宝塚ホテル門柱嘗ての宝塚ホテルの絵葉書ですが、頑丈な石造りの門柱は接収時代も撤去されなかったですが、今は残っておりません。









(参考文献)
昭和24年9月1日   運輸省観光部発行 「続日本ホテル略史」
昭和44年7月1日   日本ホテル協会発行 「日本ホテル略史」(昭和29年1月~昭和30年12月)
昭和52年3月31日  宝塚市発行「宝塚市史 第三巻」
平成21年11月24日 宝塚商工会議所「私の宝塚」編集委員会編集 「私の宝塚」

   宝塚ホテル以外に、阪神間の西宮、芦屋等には、一流の料理、サービスを提供し、作家、経営者等知名人が多く利用したホテルが存在した。甲子園ホテル、芦屋の国際ホテル、夙川のホテルパインクレスト、神戸市灘区のホテル六甲ハウスの4ホテルをご紹介します。

  (甲子園ホテル)
甲子園ホテル パンフレット阪神電鉄は、武庫川畔の上甲子園に甲子園ホテルを建設しました。帝国ホテル支配人を退いた林愛作が理想のリゾートホテルを創るべく、帝国ホテルを設計したライトの愛弟子の遠藤新に設計を依頼し、昭和5年4月15日開業しました(室数60、収容人員152)。かつて、東の帝国ホテル、西の甲子園ホテルと謳われるなど、一流のホテルであった。
   戦後は、昭和20年10月連合国進駐軍に接収され、その後大蔵省の管理下におかれたが、昭和40年武庫川学院に払い下げられた。現在は、武庫川女子大学甲子園会館として、キャンパスとなっています。



甲子園ホテル 絵葉書甲子園ホテル 絵葉書 林愛作
甲子園ホテル全景の絵葉書。
(支配人の林愛作の暑中見舞)




甲子園ホテル 絵葉書 食堂
ダイニングルーム。




甲子園ホテル 案内図
昭和5年に発行された阪神電鉄の甲子園住宅経営地案内に甲子園ホテルが表示されています。





(芦屋国際ホテル)
芦屋国際ホテル パンフレット 伊丹にあった掘抜帽子製造所の社長で、六麓荘在住の掘抜義太郎が高級住宅地芦屋市六麓荘に建てたホテルで、昭和14年10月6日開業しました(室数13、収容人員18)。敗戦後は連合国進駐軍に接収され、その後、芦屋女子短期大学の校舎として利用されました。パンフレットには、「秀峰六甲山麓、名高い健康住宅地、天下の芦屋の頂角、六麓荘の山稜に、紺碧漂う茅の海を一眸に収めて、清澄の空気、高雅の環境、絶佳の眺望を誇る当国際ホテルは、省線芦屋駅よりバスにて15分間の意外なる近距離であります」と記載されています。


芦屋コクサイホテルパンフ裏(パンフレット裏面)

 宿泊料  特等   金20円
        1等    金17円
 朝餐    金  1.5円
 夕餐    金   2.5円       等々記載


     
       (寝室)                     (庭園)                 (食堂)

芦屋国際ホテル 絵葉書 寝室芦屋国際ホテル 絵葉書 庭園芦屋国際ホテル 絵葉書 食堂






(ホテルパインクレスト)

香櫨園、夙川を高級住宅地として開発し分譲した大神中央土地が、西宮市殿山町に昭和6年7月26日にホテルパインクレストを開業した。戦後連合国進駐軍に接収された後、太陽神戸銀行の寮として利用された。

パインクレスト 絵葉書ホテルパインクレスト全景。
阪急電鉄夙川停留所東北3丁と記載。



パインクレスト マッチラベル
マッチラベル






(ホテル六甲ハウス)
ホテル六甲ハウス神戸市灘区篠原北町1丁目8番地の現イエスズ会ザビエル・ハウスの場所にあったリゾート型ホテル「ホテル六甲ハウス」。
昭和13年6月に開業しましたが、営業期間は短く、戦後連合国進駐軍に接収された後、カトリック系の病院を経て学校法人六甲学院の所有となり「六甲会館」の名前でキリスト教の布教活動や学生向けの宿泊所として利用されていましたが、昭和52年に解体されました。
パンフレットには、六甲駅下車北3丁で、六甲山頂に約10分、三宮へ約10分、湊川神社へ約15分と記載されています。


ホテル六甲ハウス2木造3階建で洋風ハーフティンバー、コッテイジ式の本館と別棟2棟から成ります。

39室。内6室が和室。



ホテル六甲ハウス 現石積み
ザビエル・ハウスの石垣の東南部に「ホテル六甲ハウス」と刻まれた石が残されています。


宝塚ホテルは開業以来、宣伝・販売促進用に様々なパンフレット、絵葉書を発行しました。一部をご紹介します。

宝塚ホテル初期パンフレット 表紙
戦前のパンフレット
室料は、御一人  1泊 3円より
           御二人  1泊 5円よりと記載。

              

         
         
         
                         
                                                                 
   

                             
                                                            (宴会場)            (結婚式場)
宝塚ホテル パンフレット31 館内写真 (ロビー)宝塚ホテル パンフレット31 館内写真2
                                                                                                                     
                                                                                                           
 (ベランダ)                                 
                                                                               
                               
                                                                               
                                                                           
  
(ダイニング・ルーム)




  
                      
                     
                                     
                                          宝塚ホテル パンフレット31上空から              
           
                           
(上空からの宝塚ホテル)
 宝塚大橋が架かっているので、  
 昭和8年3月以後のパンフレット
 と思われます。  
  
  





宝塚ホテル  南口駅から
戦前のパンフレット
宝塚南口駅ホームからの宝塚ホテルのイラスト。
ホームの駅名標には、宝塚南口と表示されています。

室料は、御一人様 1泊 4円~6円と記入。






                   
                                                                                                                                          
                                                                                                        

 南口駅からの宝塚ホテル絵葉書
宝塚南口駅のホームと宝 塚ホテル(ホームの右側
に待合が立っていることと、ホテルに煙突が突き
出ている点が上のパンフレットと異なる) 




宝塚ホテル パンフレット3181

パンフレット裏
面の地図(下記の地図)にダンスホール宝塚会館が紹介されているため、戦後ダンスホールが再開された昭和27年から昭和31年頃のパンフレットと思われます。

宝塚ホテル パンフレット3181地図




宝塚ホテル 上品な昭和12年宝塚ホテル 上品なメニュー昭和12年左は、武庫川対岸から見た宝塚ホテル。(実際には対岸の宝塚新温泉側から宝塚ホテルの正面が見えることはありません。)「家族的で上品な宝塚ホテル」と記されています。
裏面には、当日のディナーのメニューが紹介されています。昭和12年1月5日の献立です。料金は2円。





宝塚ホテル正面(外人と)
          

                                       
                                  外国人3人が、宝塚ホテルの
                                  正面玄関前を歩んでいます。






(アールデコ風絵葉書セット)
    (ホテル・正面)         (ダイニング・ルーム)       (メイン・エントランス)
宝塚ホテル 絵葉書 デザイン建物宝塚ホテル 絵葉書 デザイン食堂宝塚ホテル 絵葉書 デザインメインエントランス






(マッチラベル・バゲージタッグ)
宝塚ホテル マッチラベル
宝塚ホテル 荷物タグ3181
ラベル・タッグとも昭和30年代頃か

 阪急東宝グループ創業者の小林一三と地元宝塚の実業家の平塚嘉右衛門は、共同出資で大正15年5月14日、阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の宝塚南口駅前に、洋館5階建ての宝塚ホテルを開業しました。同年8月7日には、宝塚ホテルの5階に宝塚倶楽部という阪神間在住の知名士たちのための社交団体が設立されました。宝塚倶楽部は、会員交流の場として、宝塚ゴルフ倶楽部や東洋一のダンスホールといわれた宝塚会館を設け、阪神間モダニズム創生の一翼を担いました。


宝塚ホテル アサヒビール
開業間もない昭和2年消印の絵葉書。
ホテルの右側に宝塚南口駅、ホーム
と電車が見えます。




宝塚ホテル(イカリスーパーから)
                 南西の方向から見た宝塚ホテル全景。
              畑が広がり、人家は見られません。






宝塚ホテル パンフレット開業間もない頃のパンフレット。パンフレットには、
「宝塚ホテルは阪急電車宝塚南口駅の直前に聳ゆるドイツ風の鉄筋コンクリート5階建耐震耐火の宏壮な建物で武庫の清流と六甲の翠巒を一眸の中に収め眺望絶佳の処、緑樹の中より聳ゆるクリーム色の見るから瀟洒な気分に包まれた感じのよいホテルでございます。」
「当ホテルの建物は総計1,200余坪ありまして昇降機、電話、電灯、給水、給湯、夏のスクリーンドアー、冬の暖房等至れり尽くせりで、客室60、食堂大小2室、宴会場、グリル食堂の他応接室、談話室、球戯室、酒場、理髪室、売店があります。」
「室料は、欧式(御食事は別)で御計算致します。
  御一人 御一泊  金3円。4円。
  御二人 御一泊  金6円。
 専属風呂付
  御一人 御一泊  金6円。7円。8円。
  御二人 御一泊  金9円。10円50銭。12円。」



   
                       宝塚ホテル パンフレット上空から 
                         
上空からの宝塚ホテル。宝塚大橋が架かっていませんので、昭和8年3月以前の写真だと思われます。            
                                           
                   

        

宝塚ホテル初期パンフレット テニスコート
ホテルの南側には、2面のテニスコートが
ありました。






宝塚ホテルメニュー(毎日新聞)
開業当初の大正15年6月15日に開催された大阪毎日新聞社神戸支局主催の婦人見学団の昼食メニューです。

メニューは
 1.トマト濁スープ
 1.冷魚 イタリエン
 1.ビーフ 洋酒煮
 1.冷菓 シャベット
 1.果物
 1.コーヒー

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