
また、南貞助は日本で正式に国際結婚をした最初の人物であり、日本最初の旅行代理店を設立したとされている。
岡田幾の夫は紡績業界重鎮の岡田源太郎。
昭和26年7月5日、投票により良元村村長に当選。
昭和50年11月27日逝去。

岡田幾は宝塚の中州に住み、自宅を俳誌「白扇」を発行する俳画院の拠点とした。自宅は大谷光瑞により無為荘と命名された。
宝梅の真言宗七宝山了徳密院(宝塚聖天)には、指月の句碑があります。
(建立時・指月と) (現 在)


(芦田秋窓と共宰していた俳誌「白扇」)


良元村村長就任時が合併問題の渦中であったため、就任時にはその覚悟を、市制誕生時には喜びを、村長辞任時には安堵の句を詠んでいます。
「身をすててゆくや茨の夏の道」(村長就任時の句)
「春光に産声高し宝塚」(宝塚市制誕生時の句)
「戦ひは終りて安き日永かな」(村長辞任時の句)
(第7回宝塚市民俳句集)昭和39年10月22日市民俳句の会開催


宝塚市発足後の昭和30年代には、年1回、宝塚市(教育委員会)により俳句大会が開催され、岡田幾(指月)は審査員を務めた。
その他、宝塚小学校、宝梅中学校の校歌の作詞を残している。
(エッセイ 「続灰に書く」)


「続灰に書く」には表紙の切地に温泉染のスフを使用し、用紙には和紙の名塩紙が一部使用されている。
大谷光瑞は、岡本の山麓に二楽荘という広大な別邸を建て、二楽荘内には西本願寺本山末寺を中心とした子弟の英才教育を行うための学校(武庫中学)を創設したり、また、明治35年から仏跡調査を目的に合計三度にわたり大谷探検隊を西域、インドに派遣し、発掘調査を行うなど、非常に活動的な人物で、仏教界のトップとしては異色な人物であった。