近代宝塚歴史紀行

カテゴリ:ウィルキンソン・タンサン > ウィルキンソン・タンサン-タンサンホテル

ウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンが建設、開業したタンサン・ホテルは、どこにあったのでしょうか。明確な資料はありません。しかし、書誌、写真から下記の場所、建物と断定することができました。

「宝塚温泉の今昔」の記載内容
 昭和14年6月に発行された「宝塚温泉の今昔」(著作:牧田安氾、発行:河津積善)に「而して同(明治)二十五年頃には、傍ら炭酸ホテルと名づける欧風建築をなし、現在の分銅家の上部に異彩を添え、頻りに外人を招いて、我が寶塚発展の為、大いに尽くす処があった。」とタンサンホテルは分銅家の上にあったと記載されています。

「寳塚案内誌」の地図
 下の地図は、大正2年3月に発行された「寳塚案内誌」(藤井忠徳著・発行)に記載されている宝塚温泉の旅館案内地図です。上部中央の分銅や(分銅屋旅館)の上に「ホテル」と記入されています。ホテルとは、「タンサン・ホテル」に違いありません。
       タンサンホテル 地図
 









「宝塚青年会相撲大会の番組」の記載
 下は、昭和7年5月5日に開催された宝塚青年会相撲大会の番組ですが、「場所 分銅家上空地(元ホテル跡)」と記載されています。上の地図と合致します。

       相撲大会会場(ホテル跡)

これが、タンサン・ホテルだ。

「明治20年代後半の写真」におけるタンサン・ホテル
タンサンホテル 想定建物写真上記の資料に基づき、左は「明治20年後半の宝塚全景」の写真の一部ですが、宝塚旧温泉の上部が分銅家旅館で、その上の建物がタンサン・ホテルと断定することができました。
 この写真を見ると、建物が洋風建築であることが分かります。

     (拡大写真)    タンサンホテル 想定建物写真拡大

ウィルキンソン・タンサンの創業者クリフォード・ウィルキンソンは、タンサン水の販売を拡大する方策として、品質管理において万全を期していることをアピールするために、国内外の商社、要人を積極的に紅葉谷、または、生瀬にあった工場への視察に招聘しました。その際の宿泊、接待場所として、タンサン・ホテルを建て、活用しました。タンサン・ホテルの開業は明治23年、24年頃と思われます。

(マレーズハンドブック第3版のタンサン・ホテルの広告)
 1893年(明治26年)に発行されたマレーズハンドブック(「A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN」(Third Edition))に、タンサンホテルの広告が掲載されています。
 タンサンホテルは、海外、外国人向けには、TAKARADZUKA HOTEL(宝塚ホテル)を使い、日本向けには、炭酸ホテルをホテル名として使用しました。

 
マレーズハンドブック第3版で初めて、本文に宝塚が案内、紹介されていますが、この広告のホテルが宝塚に所在する関係で、宝塚が紹介されたと考えられます。
 外国人への宝塚観光に、John Clifford Wilkinson(クリフォード・ウィルキンソン)は、大きな貢献を果たしました。

マレーズハンドブック 第三版 (HP用)

(タンサン・ホテルの広告訳)
「この最高級ホテルは、丘の中腹の健康的な場所にあり、また、素晴らしい魅力的な
風景に囲まれています。さわやかな自然のため、医療機関によって、療養地として推薦されています。ホテルと隣接して、健康に良い有名な温泉があります。
最高の品質のワイン、ビール、スピリッツとともに一流の料理が手頃な料金で食事できます。
 宝塚は、神戸から鉄道と人力車で1時間30分で行けます。パスポートは必要ありません。 

料金等詳細は、A.HUGHESマネージャーに尋ねてください。」




タンサンホテルは、明治24年出稿、明治26年発行の第3版マレーズ・ハンドブック(「A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN」(Third Edition)で初めて広告掲載され、明治43年貴賓会発行の旅行案内(「USEFUL  NOTES AND  ITINERARIES  FOR  TRAVELLING  in JAPAN」) がホテル紹介の最後となっています。タンサン・ホテルは明治23年~24年に創業し、大正時代中期までに廃業したと思われます。

(タンサン・ホテル:宝塚ホテル全景)
タンサンホテル 1タンサンホテル 2

  (タンサン・ホテルとホテル従業員)  
タンサンホテル 従業員










(タンサン・ホテルの日本人向け宿泊料金)
下記の明治43年2月東京人事興信所編の「吾輩は何処に泊まらう乎」には、寳塚温泉場の旅館の紹介欄に壽樓、分銅屋、喜山、立美屋とともに炭酸(タンサン)ホテルが掲載されています。旅館の宿料が80銭から1円80銭に対し、炭酸ホテルの料金は破格の4円以上となっています。タンサンホテルは、当時の日本人にとって、まず経験のない洋式の宿泊施設であり、また、この高額料金から、日本人利用者はほとんどいなかったと予想されます。

吾輩は何処に泊まらう乎



 イギリス人のジョセフ・トーマス(Joseph Llewelyn Thomas)は、イギリス・ウェールズの新聞「Western Mail」から委嘱された新聞取材によりアメリカを旅している時、不図この機会に「日出ずる国」日本を見てみたいという生涯の望みを叶えようと思いつき、1895年(明治28年)6月3日にカナダのバンクーバーから汽船「The Empress of India号」に乗船し、日本に向け出発した。横浜から、鎌倉、江の島、箱根、東京、日光、神戸、大阪、京都、有馬、宝塚、奈良、須磨・明石、姫路、岡山、広島、四国(松山他)等北海道、東北、九州地方を除く日本各地を1895年(明治28年)の夏の間に旅行した。ジョセフ・トーマスのこの日本紀行記「JOURNEYS AMONG THE GENTLE JAPS」は、1897年にロンドンのSAMPSON LOW, MARSTON & COMPANY社より出版されました。
 ジョセフ・トーマスは、当時、欧米から日本への旅行客の多くが活用したマレーズ・ハンドブック( HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN)をテキストとして、日本全国を回っています。甲山がビスマルク・ヒルと呼ばれていること等の記載から、マレーズ・ハンドブック第4版(1894年発行)を日本旅行のガイドブックとしたようです。マレーズ・ハンドブック第4版の広告ページには、ウイルキンソン・タンサンとともにホテルの案内が掲載されています。

 ジョセフ・トーマスは有馬から宝塚にも足を伸ばし、宝塚ではウィルキンソン・タンサンの創立者クリフォード・ウィルキンソンにより開発・運営されていたタンサン・ホテルに宿泊し、その際のホテルの印象もこの著書に記載されています。興味深い記述も見受けられます。
 
(タンサン・ホテルとは)
河合教授とクリフォード・ウィルキンソン(切り抜き版) クリフォード・ウィルキンソンは、タンサン水の欧米への輸出を拡大する方策として、欧米の商社、取引先や要人を積極的に工場見学(当初は紅葉谷、後に生瀬に移転)に誘致し、宝塚の環境を含め、タンサン水の素晴らしさをアピールしました。その基地、接待場所及び宿泊施設として、旅館分銅家(現湯本台広場付近)の西奥の裏山にタンサン・ホテルを建て、運営しました。タンサン・ホテルはクリフォード・ウイルキンソンが事業を開始したタンサンホテル 1と思われる明治22、23年頃に創業し、大正時代中期に廃業したものと思われます。(写真左上:ホテル前の庭園(クリフォード・ウィルキンソンはJCWの人物))、左下:ホテル全景、右下:ホテル従業員)
タンサンホテル 従業員







(ジョセフ・トーマスの宝塚・タンサンホテルの印象)
ジョセフ・トーマスは、「JOURNEYS AMONG THE GENTLE JAPS」の中で宝塚及びタンサンホテルについて下記の通り印象を語っています。
  太字部分がタンサンホテルについての記載ですが、畳とメイドさんのみ日本製・日本人と記されているので、その他のホテルの内装、家具、食器、消耗品はすべて洋風、外国製だったと思われます。クリフォード・ウィルキンソンが欧米人の要人が宿泊するに相応しいホテルを作り上げるため、神戸居留地在住外国人向けの商店等から家具・備品・消耗品等を調達したと予想されます。メイドさんについては、上の写真の通り日本人が従事していました。ホテルについては、設備も整い、眺望も良く、また、朝食も美味しかったと記載されており、高水準な洋風ホテルであったと思われます。当時の日本ではトップクラスの洋風ホテルであったと思われます。

                 
 (原文訳) 
(Joseph Thomas写真)   私は昼食の後、約8マイル離れた宝塚に向け出発した。日本人娘が、道を間違えThomas写真ないよう、1マイルほど村のはずれまで私を先導してくれた。雨は旅行中、しばらく降らないでいる。道は状態が良かったが、武庫川の谷に下りる道はジグザグ道であった。景観は、まったく未開のままで、岩は日本でこれまで見た中で、最も火山性の岩であった。私は2~3の村を通り抜けたが、何れも人力車を利用することを勧められた。だから、そのルートを歩いているヨーロッパ人はいません。
 宝塚では、この上なく快適で申し分のない洋式ホテルを見つけ出した。ホテルは、マット(畳)とメイドを除いて日本製のものは何もなかった。廊下、食堂の軒下に作られた燕の巣もまた日本製に付け加えるべきかもしれません。燕は自由に、頻繁に巣を行き来していた。このホテルは見事に設備の整ったホテルで、現状よりもっと多くのお客様を得るに相応しいホテルであThomas本表紙る。お客は私ただ一人であるのに気付きました。また、宿泊者名簿に記載されている宿泊者名も多くなかった。このホテルは週末の休暇のために来る神戸在住者が主な顧客であるようだ。ホテルの立地は大変快適な場所で、ベランダから武庫川流域への眺めは素晴らしい。
  ホテルの近くには評判の高い温泉場がいくつかあります。村は、有馬よりもっと小さいが、有馬ほど山に囲まれてはいない。近くには、神戸の外国人住民から「ビスマルク ヒル」と呼ばれている丘があります。その丘には頂上に4本の木があり、偉大な前首相が頭に4本の毛が生えていることから、そう呼ばれている。丘の輪郭もまた、ビスマルクの頭の上部に似ている。
 翌日、おいしい英国式朝食の後、約2時間で東海道線の西宮駅に到着しなければ汽車の出発に間に合わないために、直ちに旅行を再開した。


(原文は下記の通りです)

「At Takarazuka I found a thoroughly English hotel, as comfortable as could be desired. There was nothing Japanese about it, except the mats and the maids. Perhaps I ought to add the swallows' nests, which clung to the cornices in the corridors and even in the dining-room, and to which their owners had free and unrestricted access. It was an admirably appointed hotel, and deserved a much larger patronage than it seemed to get. I found myself the only guest, and there were not many names in the visitors' book. It seemed to be patronised chiefly by Kobe residents, who went there for a week-end holiday. The sistuation of the hotel is very pleasant, the view of the valley of the Mukogawa from the verandah being charming. Near the hotel are some mineral baths, which are held in great repute. The village is much smaller than Arima, but is not so much hemmed in by mountains. In the neighbourhood is a hill, called by the foreign residents of Kobe "Bismarck Hill,"  from the resemblance of the four trees which are seen on its summit to the four hairs which the great ex-Chancellor is said to have on the top of his head. The outline also of the hill suggests the upper part of the Bismarck's crenium.
 On the morrow, immediately after a good English breakfast, I resumed my  journey, arriving in about two hours at Nishinomiya, on the Tokaido Rilway. The road passed through a stream with the usual wide bed, through which I had to wade, there being no bridge. In the village I met a crowd of the gakko(school), each carrying a little umbrella and a satchel, and looking for all the world as if they had just "jumped off a fan." There was the usual gentle chorus of "Ohayos!" and much curious, but never offensive, gazing at the strange-looking foreigner. Japanese children are never rude  - they are a model to little English barbarians as regards behaviours.」
 (Joseph Llewelyn Thomas著 「Journeys Among The Gentle Japs in The Summer Of Japan」 1897年 SAMPSON  LOW, MARSTON & COMPANY社発行

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