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ウィルキンソン・タンサンの創業者のJohn Clifford Wilkinsonは、1852年(嘉永5年)にイングランドのヨークシャー地方の大都市リーズで生まれ、1923(大正12年)4月15日に死亡(「The Straits Times 1 May 1923)しました。

 事業は、John Clifford Wilkinson亡き後は、長女のEthel Grace Wilkinson(1890年生まれ)が引き継ぎました。Ethel Grace Wilkinsonは、1911年にJoseph Herbert Price(1885年生まれ)と結婚しました。クリフォードの後継者とされた夫は32歳の若さで亡くなったため、長男のハーバートに引き継ぐまで、Ethelが事業を取り仕切りました。太平洋戦争中は、子息のHerbert.C.W.Price19121986は、収容所に入れられ、ミセスプライス(Ethel)本人もそれまで住んでいた屋敷を明け渡さなければならなかったので、工場の脇の住宅に住み、敵国人として不自由な生活を送りました。
 戦後は、H.C.W.Price
が母親の事業を引き継ぎましたが、1983年(昭和58年)にアサヒビールに商標、事業を譲渡後、晩年はスイスに移住し、当地で1986年(昭和61年)2月に死亡しました。


Ethel Grace Wilkinsonの文通葉書

 下に、
John Clifford Wilkinsonの長女Ethel Grace Wilkinsonが海外と交流した絵葉書があります。1906年(明治39年)から1909年(明治42年)の葉書ですが、Ethel Grace Wilkinsonが17歳から21歳の頃の葉書です。下に一部を掲載していますが、これはほんの一部で、頻繁に海外文通を行っていたことが分かります。Ethelは異国の地で、家族以外とは交流は少なかったと思われ、英語で交流が図れ、また、外国への憧れから海外の絵葉書、切手を収集するため、盛んに海外文通を行っていたと思われます。           
      
         
(Ethelがカナダの仲間に送った絵葉書は最古の宝塚全景写真です)
エセル 1-1エセル 1-2エセル 1-3





当時は、旧神戸外国人居留地の京町82番にウィルキンソン・タンサンの事務所がありましたので、上階が住居でEthelを含め家族の住まいとなっていたうように思われます。



(ウィルキンソンン・タンサン専用貨物ヤード・貨物列車の絵葉書をアメリカの友達に)
エセル 2-1エセル 2-2エセル 2-3





真ん中の文面は
「絵葉書と交換にAlaska Yukon Pacificのような記念切手(1909に開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会を記念して発行)を送ってください。 Ethel Wilkinson」




(海外からEthelあての葉書)
エセル 4-1エセル 4-2アメリカのネブラスカの文通相手から神戸のEthel宛の葉書「ミス ウィルキンソン。私はあなたやあなたの友達からの絵葉書が欲しい。」



(その他Ethelからの、Ethel宛の海外からの3枚の葉書)
エセル絵葉書3枚
Ethelは、このように非常に頻繁に海外と文通していました。




Ethel Grace Wilkinson家族の豪邸が宝塚の逆瀬川にあった

平成に入ってから解体されたような記憶がありますが、逆瀬川駅から徒歩2~3分の中州1丁目にEthel Wilkinson家族の豪邸がありました。小林聖心女子学院本館や東京女子大学礼拝堂などを設計した著名な設計家アントニン・レーモンドの設計で、1962年(昭和37年)に竣工されました。

ウィルキンソン邸地図
左の赤の太線に囲まれた区域で、
阪急今津線の逆瀬川駅から北西方向
に2~3分のところで、逆瀬川の傍の
閑静な住宅地にありましたが、今は
コープ宝塚の駐車場になっています。




(塀から見た豪邸の一部)
ウィルキンソン邸 この豪邸はEthelの子息のH.C.W.Priceの構想に基づきアントナン・レーモンドが設計した屋敷で、プライスJr.は、特に、足の不自由な母親Ethel(竣工時72歳)に快適な住環境を要望したと思われます。
「清流宝塚川(逆瀬川の間違いと思われる)に近く、松林にかこまれた狭い土地が敷地であった。三代昔からこの地の水の良さを求めて企業を始めたアメリカ人である施主は、レーモンドの建築に敬意を表しながら、だからこそ私的な難題を解決しようとあらゆる利便性をとりこんだ。各室ことなる眺めと特徴。個室としての完全性。パーティー等の社交性。設備、機械類の完全なコントロール。屋上と地下室の最高の利用法。地下の完全退避施設。足の不自由な母親のためのエレベーター。花壇に行くための地下道。冬でも水浴できるプール。」(現代日本建築家全集1 アントニン・レーモンド 三一書房発行)

(豪邸のレイアウト)
プライス邸 図面
敷地約450坪。池も配し、地下1階、地上2階、部屋数31、酒倉、女中部屋3室、トイレ3箇所を配した豪邸です。1962年(昭和37年)竣工。

設計した
アントナン・レーモンドは、プライスJr.の親友で
あったようで、
東京の二子玉川にあった自宅も
アントナ
ン・レーモンドが設計しました
アントナン・レーモンドは、
二子玉川の家を訪れ、プライスJr.の話を聞きながら
設計の構想をまとめたようである。
プライスJr.は、母親のために、炭酸のゆかりの地、宝塚
に居を求めたのではないかと思われる。


 
 

                 
(参考書類)
・建築知識(1992年1月号 清水慶一著「近代産業建築・ウヰルキンソン氏の不思議な工場」)
・「ウィルキンソンタンサン鉱泉株式会社宝塚工場調査報告書」足立裕司編(西宮市教育委員会発行)
・「A・レーモンドの住宅物語」三沢浩著(建築資料研究社発行)

 Singapore Free Press and Mercantile Advertiserは、1835年にシンガポールで2番目に発行された歴史ある英字新聞(1962年廃刊)ですが、その1911年(明治44年)5月16日号に、クリフォード・ウィルキンソンの長女のエセル・ウィルキンソン(結婚時21歳)とハーバート・プライス(結婚時26歳)の結婚記事が出ています。シンガポールでは、子女の結婚記事が出るくらいウィルキンソン・タンサン及びクリフォード・ウィルキンソンが著名であったと推測されます。夫のハーバート・プライスは32歳で早逝しましたが、ハーバートとエセルの間に出来た子息のHerbert.C.W.Priceがその後ウィルキンソン・タンサンの経営に長く携わりました。

 The Singapore Free Press and Mercantile Advertiser (16 May 1911)のエセルの結婚記事の和訳は下記の通りです。結婚式は、トーアロードにあったオール・セインツ教会(All Saints' Church)で執り行われました。
「宝塚、神戸のクリフォード・ウィルキンソン(J. Clifford-Wilkinson)の長女であるエセル・ウィルキンソン(Ethel Wilkinson)とクリフォード・ウィルキンソンタンサン ミネラルウォーター会社の秘書であるハーバート・プライス(Herbert Price)の二人の素敵な結婚式が神戸のオール・セインツ教会(聖ミカエル教会)において挙行された。この式は英国聖公会ケトルウェル教区長によって執り行われた。公的手続は午前中にレイアード総領事の立ち会いのもと、英国領事館で行われた。」


オールセイントチャーチ(中山岩太)1939年(昭和14年)のトーアロード。右の尖塔の建物がエセル・ウィルキンソンとハーバート・プライスが1911年に結婚式を挙行したオール・セインツ教会です。

トーアロードに面したこの素敵な教会は、1945年6月5日の神戸大空襲で被爆、焼失しました。教会跡は、現在、聖ミカエル国際学校になっています。
左の写真は、芦屋・神戸を本拠に活躍した日本を代表した写真家の中山岩太(1895~1949)の作品です。



1918トーアロード(オールセイントチャーチ)
1918年(大正7年)のトーアロード。オール・セインツ教会が見えます。




 オールセイント(小松益喜)
左は小松益喜画伯によるオールセインツ教会のスケッチです。
小松益喜画伯によるとこの教会は「三角のトンガリ帽に四枚の鎧戸を持ち、その下の壁は、凡て素焼の橙色瓦で覆われていた。最前部は地味な色の赤煉瓦だった。庭には西洋の極楽花である夾竹桃が一面に咲き乱れていた。この教会の裏側一帯は華僑の住家だったし、教会の下には同文書院があった。」、さらには、「戦後雨後の筍のように出来たアメリカ風教会など足許にも寄れないような華麗荘厳」だったと記しています。
「神戸 我が幼き日の----」田宮虎彦・小松益喜著(昭和33年 中外書房発行)





「 Wilkinson- Price
 A very pretty wedding ceremony was celebrated in All Saints' Church, Kobe, the contracting parties being Miss Ethel Wilkinson, elder daughter of Mr J. Clifford-Wilkinson, of Takaradzka and Kobe, and Mr Herbert Price, Secretary of the Clifford-Wilkinson Tansan Mineral Water Co. The service was conducted by the Rev. F. Kettlewell, BA. The civil service took place at H. B. M.'s Consulate-General in the forenoon, before R. de B. Layard, Esq., Consul-General.」

 『The Singapore Free Press and Mercantile Advertiser (16 May 1911)』

ウィルキンソン・タンサン鉱泉の創業者John Clifford Wilkinsonの孫でウィルキンソン・タンサン鉱泉㈱の経営に携わったHerbert.C.W.Price(ハーバート・C・W・プライス)は1985年度の全国長者番付の2位になりました。ウィルキンソン・タンサンの歴史、ブランド力及び長年の蓄積が最終的にこの所得番付につながったと思われます。

1985年度長者番付(所得税額)

 1位 李 基寿(東洋金属社長)       12億6,653万円
 2位 ハーバート・C・W・プライス(クリフォード・ウヰルキンソンタンサン鉱泉元社長)  11億3,132万円(前年69位)
 3位 柳下達之(柳下地所社長)       9億1591万円 
 4位 松下幸之助(松下電器産業相談役) 8億5,709万円(前年1位)
 5位 阿波 慶                               8億4,000万円
 6位 佐藤勝康(勝商事社長)         7億9,213万円
 7位 上原昭二(大正製薬会長)       7億6,765万円(前年4位)
 8位 赤川次郎(作家)                      7億5,709万円(前年8位)
 9位 江里口収(不動産貸付)            7億4,049万円
10位 本田弁次郎(本田技研工業名誉顧問・宗一郎の弟)   7億3,160万円

  この数字は所得税額ですが、プライスの所得は約33億円あったと考えられます。この時期は大口の土地を手放す地主に対して優遇措置がとられ、税率が低かったそうです。
  プライスは前年も長者番付で69位に入っています。1983年にウィルキンソンタンサン鉱泉㈱は、アサヒビール㈱にウィルキンソンの商標権を売却しており、それがプライスを長者番付に押し上げたと思われます。

   ハーバート・C・W・プライスは余生をスイスで送るため、東京田園調布や宝塚の邸宅、敷地を売却したと思われます。ハーバート・C・W・プライスは1986年2月に死亡しており、スイスに移住して1年~2年で亡くなったことになります。

参考文献 「日本の長者番付」菊池浩之著(2015年平凡社発行)他

創業者ジョン・クリフォード・ウィルキンソンの長女エセル・プライス・ウィルキンソンが、「天然炭酸水の始り」というウィルキンソン・タンサンの創業期について語った資料があります。それはエセルが東京清涼飲料協会の協会25周年にあたり投稿したもので、東京清涼飲料協会発行の「日本清涼飲料史」(1975年発行)に所収されています。ウィルキンソンの創業期については、資料がほとんどない中、創業家一族の筆により、創業者の逝去後間もない時期に書かれた「天然炭酸水の始り」は、数字等細かい部分については誤りがあるかもしれませんが、最も信頼に足る資料であると思われます。
  エセルによる英語による寄稿文を和訳したものか、英会話によるインタビュー内容を和訳したものと思われ、表現、漢字に少し疑問な部分があります。


1.当初の炭酸水製造工場とタンサンホテルの場所

エセル・プライスは当初の炭酸水製造工場とタンサンホテルの場所について、下記の通り触れています。
「炭酸水の製造に取りかかったのであります。場所は、旧宝塚鉱泉の「ワキ」で、確か今「ブンドウ屋」と云ふ旅館のある裏手に当ると思ひます。尚ほ亡父は、その側へ「ホテル」を建てて「タンサン ホテル」と命名し、炭酸水の製造と共に兼営して居りました。」
温泉街近辺案内図(ブログ用)私のブログ「紅葉谷時代のウィルキンソン・タンサン工場(作業場)」で、英国の週刊画報雑誌「THE SKETCH」1899年7月12日号における当時の工場(作業場)写真から、その場所が判明しました。工場、タンサンホテル、旅館分銅家(ふんどうや)のそれぞれの場所は、左の地図の通りで、工場(現在の湯本町10-38辺り)、タンサンホテル(現在の武庫山2-4-23コスモヒルズ宝塚武庫山付近)、旅館分銅家(現在の湯本台広場)と想定されますが、エセルの記述内容とも整合していることが分かります。


2.天然鉱泉の発見の経緯と炭酸水製造開始時期
天然鉱泉の発見の経緯は「父が或る日の事、宝塚へ狩猟にまいりました折、ふと天然鉱泉の湧出する処を見出したのですが、其処では其の以前から萩原さんと云ふ方が宝成会社と云ふ「ラムネ」製造会社を経営して居られました。そこで、一応その鉱泉を試験して見ますと、立派な食卓用鉱泉であることが判りましたので、此の宝塚へ移って炭酸水の製造に取りかかったのであります。」と記載しています。
「宝成会社」と記載されていますが、「保生会社」の間違いです。
小佐治豊三郎岡田竹四郎等によって設立され、温泉経営、鉱泉湧出所を経営した保生会社を指していると思われます。萩原とは保生会社の一員で財界の有力者であった萩原吉右衛門と思われますが、この文章から、クリフォード・ウィルキンソンが天然鉱泉を発見した時点で、既に保生会社が「ラムネ」を製造、販売していたと推測されます。昭和14年6月発行の「宝塚温泉之今昔」もほぼ同じ内容が記されており、ウィルキンソンはこの鉱泉を譲り受け、炭酸水事業を開始したと考えられます。

炭酸水の製造開始時期は、「私の亡父クリフォード・ウィルキンソンが此の宝塚へ来て炭酸鉱泉の製造を始めたのは、確か明治22年であったと思う。」とエセルは述べています。「宝塚温泉之今昔」には明治22年にラムネ部の譲渡を受けたとあるため、製造、瓶詰作業を始めたのは翌年の明治23年であったかもしれません。
宝塚温泉の今昔「宝塚温泉之今昔」には、ウィルキンソンの炭酸水事業の草創期について次の通り記載しております。「一方、英人ウヰルキンソン氏は、其の頃、此の地の風光を慕ひ、屡々、狩猟に来宝、岡田武四郎氏等と相知るところとなり、特に炭酸水の天然に湧出して居るのに着目し、之れを洋酒の割水にと、海外輸出を計画し、明治二十二年保生会社より、ラムネ部の譲渡を受け、紅葉谷に工場を設けて、事業を開始した。」
 左は昭和14年6月発行「宝塚温泉之今昔」(牧田安汜著)の表紙
 


3.タンサンホテルの建物は大正10年頃まで残っていた
タンサンホテル 2タンサンホテルは「お客は勿論外人相手で、その「ホテル」の家屋は大正10年頃まで残って居りました。まだ設備などの充分出来なかった当時のことですから、水は一々荷ひ桶で汲み上げて来て、それを濾して使っていたと云ふ有様です。」タンサンホテルは外国人用日本旅行ガイドのマレーズ・ハンドブックへの広告、本文中のホテル案内から、
明治23年頃に創業したと思われます。大正4年に廃業し、タンサンホテルの建物の一部は、大正12年に生瀬の工場に技師住宅として移築されました。タンサンホテルは洋式であったため、また、高額な宿泊料であったため、日本人客はほとんどなかったようです。

4.タンサンホテルは炭酸水の宣伝のために外国船のキャプテンを招待した
「神戸の港へ外国の汽船が入りますと、直ぐに船のキャプテンなどを誘って、宝塚のホテルに案内し、鉱泉を見せて炭酸水の宣伝を盛にやって居りました。」とあり、ウィルキンソンは、炭酸水の販売先としては、ホテル、レストラン及び客船をターゲットにしており、その一環で汽船への炭酸水の利用拡大を図るため、キャプテンを積極的に宝塚、タンサンホテルに招待したと思われます。

5.当初の神戸営業所は海岸通32番地にあった
「尚ほ当時の営業所は、神戸弁天浜(居留地2番館)の「ニッケル,ライン商会」の2階においてありました。」と記載されていますが、1897年発行の「日本貿易商案内」には、NativeBund(海岸通)32 C. Nickel & Co. 、J. Clifford Wilkinsonと記載されています。C. Nickel & Co.の後に記載されているため、2階に事務所があったのでしょう。ニッケル社は後にライオンス社と合併し、ニッケル・エンド・ライオンス社(NICKEL&LYONS CO.,LTD.)となります。「ニッケル,ライン」でなく、ニッケル・ライオンスが正解です。弁天浜は現在の神戸駅の南側の地区ですが、海岸通とも接続しているため、エセルの勘違いと思われる。
ウィルキンソンの神戸の拠点は、海岸通りから、その後明治38年に居留地の京町82番地に移りました。

6.生瀬工場への移転
「炭酸水も大に売れて参り、鉱泉の湧出量が不足を来たしましたので当時平野、森田両氏が発見されました現在のナマゼ山下の鉱泉へ明治37年に工場を移転することになりました。」と記載の通り、マニラ等海外への輸出拡大と共に、国内においては、ホテル、レストランへの販売も拡大する一方、宝塚の鉱泉が枯れてきたため、近辺で鉱泉を探索する中、生瀬に優れた鉱泉を探し当てたと思われる。平野、森田両氏とは、平野彰、森田糺と思われ、両氏とも生瀬村の有力者であり、森田糺は生瀬温泉の開発者であったことから、両氏の協力により泉源、工場用地が獲得できたと考えられる。
  森田糺が開発し、旅館を営業した生瀬温泉は、武庫川支流の太多田川と赤子谷川の合流地点付近の不便な場所に立地したため、明治30年~34年頃までのほんの短期間で営業終了し、閉鎖された。「阪鶴鉄道案内」(明治35年10月発行)に生瀬温泉の泉質は含塩炭酸泉と記載されており、宝塚温泉と成分が類似しています。事前に森田糺等との接触により生瀬温泉の泉質情報も入手していたと思われ、その結果、ウィルキンソンは工場移設に当り、宝塚にも近い生瀬を適地としたと思われます。

7.この投稿は昭和2年前後に執筆された
「父は4年前大正13年にこの世を去りました。」と記載されていますが、ジョン・クリフォード・ウィルキンソンは、実際は、1923年(大正12年)4月15日に死去しています。翻訳者の誤りと思われます。





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