明治、大正時代の宝塚においては、炭酸水の製造が唯一の工業と言えるものであったようだ。寳塚鑛泉はウィルキンソン・タンサンと双璧の炭酸水・ミネラルウォーター製造会社であった。明治30年前後から始められていたと思われる鉱泉の瓶詰事業は、明治42年3月に温泉場持主組合から独立した萩原吉右衛門の寶塚鑛泉合資会社に継承された。寳塚鑛泉は、後述の通り、社名変更などにより、後に寳鑛泉となった。タカラサイダーは、寳塚鑛泉、寳鑛泉の代表的な商品であった。

「書誌による宝塚鉱泉の紹介」

(明治36年発行の「寳塚温泉案内」における宝塚鉱泉の紹介)
明治36年発行の「寳塚温泉案内」には、宝塚鉱泉について、『ここの鑛泉に二種ありて、一を単に鑛泉と称し、他を炭酸泉といふ。鑛泉は温浴に適し、炭酸泉は飲料水として最も効験著るしく別項に記したる如く、清野、緒方等諸名医の証明を得たれば、此水を汲取りて、飲料用に供するこそ宜けれと、有志の人々相謀りて「寳塚鑛泉」と称し、広く内地及び海外に輸出する事となりぬ。故に寳塚鑛泉の名は一時飲料水として世に知られ』と記されています。
 
(大正2年発行「寳塚案内誌」における宝塚鉱泉の紹介)
大正2年発行「寳塚
案内誌」には「寳塚鑛泉合資会社(支配人椙原透氏)は北岸寳塚に在り、たからサイダー、たからフレース等の飲料水を製出し、産額頗る多大なり」と記されています。 

宝塚鉱泉ポスター
タカラサイダーのポスター
左下には、寳塚鑛泉合資会社と記載。






          
                          




        寶塚鑛泉の瓶栓
宝塚鉱泉キャップ_1
下の寳鑛泉タカラサイダー瓶と左の寳塚鑛泉の瓶栓のマークが同一のため、鑛泉は寶塚鑛泉の社名変更等により継承された同じ系統の会社であった思われます。





宝鉱泉正門・タカラサイダーマーク宝鉱泉正門
(右)寳鑛泉株式会社の正門とタカラサイダー他商品紹介
(左)タカラサイダー瓶の拡大

 昭和7年寒川松林庵発行「寳塚」から


   「寳塚鑛泉株式会社絵葉書」
宝塚鑛泉本社

本社建物。タカラサイダー本社と記載。










「宝塚鉱泉会社の所在地」
宝塚鉱泉の本社・工場は、「寳塚案内誌」の通り、宝来橋の下(西側)に
あったようです。
宝塚鉱泉宝来橋南地図
大正2年発行「寳塚案内誌」内の地図に
宝来橋の下部(東側)の炭酸会社と記載
されている場所に寳塚鑛泉の会社、工場
あったと思われる。








その後、大正末期から昭和初期にタカラサイダー(宝鉱泉)工場は
宝塚市中央図書館桜ケ丘市史資料室(旧松本安弘邸)の池を挟んだ
南側(現在の西宮市生瀬東町)に移転したようです。

タカラサイダー煙突1タカラサイダー煙突2(左)昭和初期の絵葉書と思われますが、右上に煙突が見えます
(中)煙突部分を拡大するとタカラサイダーと読めます



宝塚鉱泉地図(昭和10年6月)(地図の煙突位置)
昭和10年6月大日本帝国陸地測量部発行地図ですが、福知山線線路沿いの北側に煙突符号があり、その場所がタカラサイダーの工場位置と考えられます。






(参考文献 : 市史研究紀要たからづか第25号  川島智生著「大正期・寳塚鑛泉株式会社の建築と模範職工団について」)

「書誌におけるタカラサイダーの広告紹介」
宝塚沿線名勝誌宝塚鉱泉広告
大正9年発行「宝塚沿線名勝誌」の広告欄








                                    



宝塚乃しほり 宝鉱泉
昭和4年発行「宝塚乃しほり」  の広告欄