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日本の絵葉書の歴史は、明治3310月に私製葉書の発行が許可されたことにより始まりました。明治37年に勃発した日露戦争直後には記念絵葉書の熱狂的なブームが起こり、発行の度、郵便局は押すな押すなの状況になったそうです。有数の観光地であった宝塚でも、多種多様な観光絵葉書が発行、販売されました。絵葉書は、温泉街にあった土産物店や新温泉内の売店、神戸元町商店街の外国人向け土産物店等で販売されていました。

絵葉書の題材は時代とともに変遷しました。明治末期の絵葉書の定番の題材は、温泉場、分銅家等旅館街、箕有電軌(現阪急)宝塚停留所、丁字ノ瀧・見返り岩、中山寺・清荒神清澄寺・塩尾寺等の社寺、その他宝来橋・温泉街全景等でした。大正末期から昭和初期になると、新温泉が中心となり、ダンスホールの宝塚會舘、新温泉の大劇場、植物園、プール等が加わり、旧温泉付近の街並みは省かれるようになりました。

ウィルキンソンの絵葉書

宝塚を題材にした絵葉書は、観光客への販売用だけではなく、ウィルキンソンと箕有電軌(箕面有馬電気軌道)によってDM(ダイレクトメール)用に制作、発行されたものが多く見られます。
明治時代のウィルキンソンDM絵葉書(ブログ用)

明治時代のウィルキンソンDM絵葉書







上は、紅葉谷から温泉場に続く旅館街と対岸の川面方面までを一望した宝塚全景絵葉書です。まだ新温泉が着工されておらず、明治40年頃の撮影と思われます。上部に英語で「タンサン源泉近くの宝塚」と印刷されており、ウィルキンソンのDM用に使用された絵葉書です。絵葉書の差出人はウィルキンソンの創業者クリフォードの長女エセルで、最上部には自筆で絵葉書送付のお礼が書かれています。エセルは、学生時代、絵葉書交換により世界各国の絵葉書を収集し、日本でも有数の収集家であったようです。ウィルキンソンがDMに使用した絵葉書は、宝塚の名勝や生瀬工場はもとより、各地の名所、美人絵葉書まで多岐にわたりました。絵葉書の通信欄には、「DRINK WILKINSON’S TANSAN “Choicest of all Choice Waters.” None other is Genuine.」等と記されています。

 

箕有電軌の絵葉書

箕有電軌は広報・販売促進のツールとして、当時流行していた絵葉書を活用しました。明治43年3月頃より、宝塚、箕面や沿線の季節案内・行事等を記載した絵葉書を毎月制作し、株主等関係先や顧客に送付しました。当初は箕面動物園や箕面瀧等箕面関係の案内にスペースが割かれていましたが、宝塚新温泉の開業後は、宝塚の案内に比重が置かれるようになりました。

下の明治44年の絵葉書では、武庫川右岸からの宝塚新温泉の風景が描かれ、右下には7月の沿線行事として、新温泉の武庫川原の花火、箕面瀧安寺の大護摩供や能勢妙見の虫払祭等が紹介されています。
明治44年の箕有電軌発行絵葉書(ブログ用)




明治
44年の箕有電軌発行絵葉書







箕有電軌が、大正2年7月より沿線情報雑誌「山容水態」を毎月刊行することになったため、絵葉書の役割は終わり、定期発行は停止されました。「山容水態」には、鉄道、宅地開発等の自社宣伝の他、沿線観光・行事案内等が網羅され、箕有電軌の総合PR誌になりました。

 昭和3年11月3日、現在の豊中市に生まれた手塚治虫(本名:手塚治)は、昭和8年に家族とともに川辺郡小浜村川面字鍋野(現在の宝塚市御殿山)の祖父の別邸へ引っ越し、昭和27年に上京するまでの約20年間を宝塚で過ごしました。

父親の手塚粲(ゆたか)が加入していた武庫川倶楽部の事務所があった宝塚ホテルには、家族揃って、食事、パーティー等で度々訪れました。昭和13年に小林一三が結成した武庫川倶楽部は、阪急沿線の有力居住者を対象とした会員組織で、会員の親睦を主目的としましたが、阪急グループ施設への利用促進が狙いであったようです。昭和18年の会員名簿には次のように記されています。「手塚粲 住友金属㈱ 兵庫縣川邊郡寳塚御殿山(電寳塚五二五)」

昭和21年の宝塚歌劇ファン機関誌への投稿

手塚治虫のプロデビューは、毎日新聞の小学生向け新聞「少国民新聞」に、昭和211月より連載開始された四コマ漫画「マアチャンの日記帳」とされています。下は、プロデビュー直後の21年9月の「宝塚ふあん」第5号(「全国宝塚会」発行)に掲載された手塚治虫作のカットです。「宝塚ふあん」の目次には、「漫畫・カット 手塚治虫」と案内されており、上記以外のカットも描かれています。宝塚ふあん手塚治虫(ブログ用)


昭和
21年「宝塚ふあん」の手塚治虫作カット









治虫の昭和2176日の日記には、「昼から園田まで「全国宝塚会」の会誌編集のお相伴で」と、発行元を訪ねた記述があります。「宝塚ふあん」は21年5月に創刊されましたが、初期は、装幀、カット等で、手塚治虫の手を借りたようです。なお、全国宝塚会は、宝塚歌劇を愛好支援する目的で結成された会員組織で、会の機関誌として発行された「宝塚ふあん」は、平成16年頃まで発行されていました。

昆虫館と近隣に居住していた岩谷時子

手塚治虫は、小学校5年生の頃、平山修次郎の昆虫図鑑「原色千種昆蟲圖譜」を見て、オサムシ類が、目がギョロっと、鼻が大きく、自分に似ていることから、治虫(オサムシ)をペンネームとして使い始めました。居住していた御殿山周辺は自然に恵まれたところで、治虫は同級生とともによく昆虫採集に出かけ、昆虫マニアになりました。

そのような時期、昭和14年8月に宝塚昆虫館が宝塚新温泉に開館しました。昆虫館は、約五千種類の昆虫標本を陳列するとともに、生きた昆虫の飼育状況も観察できる画期的な施設でした。治虫は、昆虫館に通い詰め、昆虫の知識を深めていきました。

 新温泉にあった昆虫館(ブログ用)


新温泉にあった昆虫館










 手塚邸の近くの上川面には、治虫在住時と重なる昭和13年~26年、越路吹雪のマネージャーで、大作詞家となった岩谷時子が居住していました。西宮から、父母とともに宝塚に引っ越した岩谷時子は、宝塚少女歌劇団出版部の「宝塚グラフ」の編集に携わる中、生涯のパートナーとなる越路吹雪と出会いました。戦争が始まると、越路吹雪は岩谷邸で過ごすようになり、戦後、上京するまで同居していました。岩谷時子の自伝「愛と哀しみのルフラン」によると、当時、『宝塚は、夜、静かになると「タカラーヅカー、タカラーヅカー」と駅員のまでと
声が家どき、宝塚植物園に飼われたあしかが「アーウ、アーウ」と、なくのが、きこえる。』と述しています。

ホテル若水付近にあった明治20年5月開業の宝塚温泉・初代温泉場には、2つの鉱泉の源泉がありました。この2つの源泉が宝塚発展の礎となる宝塚温泉と「ウィルキンソン タンサン」を生みました。

温浴用「宝塚鉱泉」と飲料用「宝塚炭酸泉」

明治21年発行の「兵庫県統計書」には、温泉場の2つの源泉「宝塚鉱泉」「宝塚炭酸泉」について記述されています。宝塚鉱泉は「温度21度、泉質は含炭酸食塩泉で、温浴すれば、リウマチ、神経痛、慢性子宮病等に効あり。飲用すれば慢性胃腸炎に、吸入すれば喉頭炎等によい。」と、宝塚炭酸泉は「温度21度、弱単純炭酸泉で清凉飲料に適し、食欲を進める効あり。1日2、3回飲用するのがよい。」と記されています。

宝塚鉱泉は、宝塚温泉場の温浴用に使用され、飲用には、ウィルキンソンが発売した薬効水「NIWO(仁王水)」の原料となりました。「NIWO(仁王水)」は、当時の販売代理店のDMには、「脳活動を増進させ、エネルギッシュにするが、風味はそれほどでなく、パーティの翌朝等必要な場合を除き、1週以上継続して服用しないよう」と記されており、塩分、鉄分の含有量が多く、飲用には向かなかったようで、後に廃番になりました。

NIWO(仁王水)ボトルラベル(ブログ)

NIWO(仁王水)ボトルラベル











 宝塚炭酸泉は、クリフォード・ウィルキンソンがこの源泉を瓶詰めし、明治23年に天然炭酸水「TAKARADZUKA MINERAL WATER(宝塚ミネラルウォーター)」として発売し、後に改名した「TANSAN(タンサン)」は世界的な飲料ブランドになりました。

なお、明治34年発行の外国人向け英文日本旅行案内「マレーズ・ハンドブック」にも、『宝塚は、2つの鉱泉「TANSAN(優れた飲料水)」と「NIWO(塩分・鉄分が多く、便通に良い。加熱して入浴にも使われる)」で有名である』と記されています。


「寳塚ラムネ」と炭酸泉の採取権譲渡

ウィルキンソンの「タンサン」の原料となった源泉「宝塚炭酸泉」は、クリフォード・ウィルキンソンが第一発見者ではありません。ウィルキンソンがこの鉱泉に出合う以前の明治2122年頃、宝塚温泉場を経営していた保生會社が、この鉱泉を原料に「寳塚ラムネ」(通称「小判ラムネ」)と称するラムネを販売していました。保生會社は、後に保生商會と社名を変更したようで、明治22年6月22日の東雲新聞には、保生商會による「寳塚ラムネ」の広告が掲載されています。広告には「当商會のラムネは天然の炭酸泉を以て製造するが故にその効能の著しき高評を得たり」と記されています。

明治22年「宝塚ラムネ」の広告(ブログ)




明治22年「寳塚ラムネ」の広告







しかし、寳塚ラムネは順調でなかったようで、広告掲載後まもなく、宝塚炭酸泉の採取権をウィルキンソンに譲り渡すことになりました。明治33年発行の「大阪経済雑誌」には、2合瓶入り11厘で、20年契約であったと記されています。


8月15日は終戦記念日。 今年で太平洋戦争終戦から77年になります。昭和1612月に開戦した日本は昭和17年6月のミッドウェー海戦での大敗が転換点となり、以後昭和20年まで敗戦の道を進んでいきます。戦況の悪化は、宝塚に多大な影響、被害を与えました。

宝塚海軍航空隊

宝塚大劇場は決戦非常措置により昭和19年3月4日をもって閉鎖され、6月1日には大劇場を含む宝塚新温泉施設は海軍に接収されました。8月15日に滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊が開隊し、25日には三重海軍航空隊奈良分遣隊から第13期甲種飛行操縦専修生一千名が配属されました。その後、121に第14期生9百名、翌年には第15期生、16期生が入隊してくる一方、第13期生は10月頃より回天訓練基地などへ転属していきました。

昭和20年3月1日に宝塚分遣隊から改名した宝塚海軍航空隊には、常時3千5百名~4千名近くの海軍将兵が大劇場や新温泉諸施設を利用して生活しました。宝塚大劇場のエントランス入って右奥には「寶塚海軍航空隊跡地」の石碑が立っています。
寶塚海軍航空隊跡石碑(ブログ用)


「寳塚海軍航空隊跡地」石碑












川西航空機宝塚製作所への空襲

昭和20年に入ると、5月11日に西宮が大規模な空襲を受け、阪神地方への空襲が本格化していきます。7月24日には宝塚市域の川西航空機宝塚製作所が標的にされ、B29と小型艦載機併せて百五十機により爆弾が投下されました。現在の阪神競馬場、新明和工業宝塚工場の場所にあった川西航空機宝塚製作所は、敷地面積67万平米に及ぶ広大な工場で、軍用機の部品を製造していました。川西航空機の甲南、鳴尾、姫路の各工場は相次いで空襲を受けており、主力工場では宝塚が残っているだけでした。

工場には関西学院、神戸女学院等からの勤労学徒や宝塚少女歌劇予科、本科の生徒の一部も女子挺身隊として宝塚製作所に動員されていました。この空襲による死傷者は、死者83名、重傷者39名にのぼりました。また、被害は工場に留まらず、その周辺にも及び、宝塚市域良元村も23名の命が失われました。

 

戦争末期の宝塚温泉

昭和19年4月の宝塚温泉は、前月に決戦非常措置が発令され、不要不急の旅行が禁止されたこともあり、半数近い旅館が休業または廃業の状況にありました。旧温泉を含む分銅家、泉山楼、松凉庵等19軒の旅館は廃業し、軍需工場の川西航空機、東洋ベアリング、大阪機工等へ寮用に家屋を供出していました。また、料理を提供していた相生楼、三好野、鳥金等8軒は休業していました。当時の宝塚旅館組合の加入者は、旅館が宝塚ホテルや寿楼等26軒、飲食店は新温泉を含む9軒に減少していました。

終戦とともに、米軍による進駐が昭和20年9月25日から開始され、宝塚新温泉諸施設、宝塚ホテル、宝塚ゴルフ場等が接収されました。宝塚ホテルは米軍の将校クラブとして使用され、昭和30年の解除まで、接収が長期に亘りました。当時、入口看板には、英語で伊丹空軍基地部隊将校クラブと表記されていました。
進駐軍接収時代の宝塚ホテル(ブログ用)





進駐軍接収時代の宝塚ホテル

六甲と長尾の山並に囲まれ、武庫川の清流が流れる宝塚は山紫水明の地と謳われ、武庫川及び武庫川に架かる宝来橋は宝塚を象徴する景観となりました。明治35年頃、画家の山本永暉が藤沢南岳とともに選定した宝塚温泉八景には、「宝橋(宝来橋)新月」が選ばれています。また、宝来橋架設以前明治21年の大阪毎日新聞には、宝寿寺(平林寺塔頭宝寿院と思われる)の住職崇龍弁師が「武庫川帰帆」を含めた宝塚八景を選定したと報じられています。

明治22年の大阪朝日新聞の広告欄には、旅館分銅屋が「鮎沢山に御座候」、旅館辨天樓が「カジカを聞き飛ぶ蛍を見るに便」と掲出しており、宝塚温泉、旅館は武庫川の恩恵がなければ集客は困難であったと思われます。

 

宝塚観光花火大会

武庫川を舞台に、宝塚の夏の風物詩として毎年5万人以上の観客があった宝塚観光花火大会が中止されて6年経過しました。毎年この時期になると、家族揃って出掛けた花火大会を思い出される方が多いのでは。
 宝塚花火大会は、宝塚新温泉の来場者増員策として、大正2年8月に新温泉の正面(武庫川の中州)で行われたのが初回とされています。「美はしい天上の風景!! 宝塚第一回全国煙火大競技会」と称し大阪時事新報社の主催で行われました。明治44年5月に開業した宝塚新温泉は、当初は繁盛していましたが、大正時代に入ると閑散とした状態が続きました。婦人博覧会の開催により盛り返しましたが、終了すると閑散とした状態に戻り、集客挽回策として花火大会が行われたのです。 
宝塚花火大会


新温泉夜景(花火大会)
昭和28年頃








 花火大会は、住宅開発により、会場が狭まり、安全面から中止せざるを得なくなったのですが、元々宝塚は花火師泣かせの大会であったようです。平成初期のインタビューで、花火師は「武庫川畔には旅館や大劇場の建物があったことから、打ち上げる範囲が狭いため、花火の中でも細工が難しくなる小さな
(最高3号玉)を選択せざるを得なかった」と述べています。

 

洪水による災害

武庫川は、宝塚に素晴らしい景観と自然の恵みをもたらしましたが、一方、数多くの災害を引き起こしました。

明治30年9月には、武庫川の洪水により、宝塚温泉(温泉場)の建物が流出しました。掲出されていた「寳塚温泉」の扁額も大阪湾浜寺沖まで漂流しましたが、無事回収でき、現在ホテル若水に保存されています。増水時の流失を防ぐため、温泉場はセットバックして新築され、明治33年に完成しました。は、洪水直後の写真で、まだ温泉場が新設されておらず、温泉場跡には仮設の温泉場が建てられています。
宝塚全景(部分)

流出直後の温泉場跡と旅館風景





 橋梁については、昭和2010月の阿久根台風による洪水で千歳橋が流失し、昭和25年9月のジェーン台風で迎宝橋が流失しています。宝来橋は、明治448月の大阪朝日新聞に「寳塚にては武庫川増水の為例の蓬莱橋は又々押流され」と記される通り、頻繁に流出していたようです。宝来橋は千歳橋、迎宝橋と異なり、宝塚駅と温泉場を結ぶ大動脈で、代替が効かない橋であったため、その都度再建されました。

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