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元神戸ポルトガル総領事で、著名な日本文化研究家であったヴェンセスラウ・デ・モラエスは、神戸在住時に度々宝塚を訪れています。ポルトガルのリスボンに生まれ、海軍士官の後、外交官になったモラエスは、明治32年に在神戸副領事として赴任、神戸在勤中に芸者おヨネ(本名は福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになった。大正元年にヨネが死没すると、ヨネの故郷である徳島市に移住し、昭和4年、徳島市で孤独のうちに没しました。

モラエス


ヴェンセスラウ・デ・モラエス








 著書に「おヨネとコハル」、「日本精神」等があり、関係の深い神戸市の中央区東遊園地にはモラエスを顕彰した銅像が建てられています。モラエスは、度々訪れた宝塚の絵葉書を使用し、ポルトガルの妹や親族に近況を送っていました。モラエスが送ったものと同じ絵葉書、及び記載内容をご紹介します。

モラエスが送った絵葉書「旅館松凉庵」

左の写真は、明治43年6月にモラエスが妹フランシスカ・パウルに送付したものと同一の絵葉書画像です。通信欄に記されたモラエスのメッセージは次の通りです。

昨日の日曜日は雨だったが、また宝塚に行った。家でうんざりした一日を過ごしたくなかったのだ。ぼくが昼食をとった日本旅館の写真と旅館の玄関の絵葉書(宝塚旅館の松凉庵)とを送るよ。ぼくがいた離れ座敷は、左手の、木々のほとんど陰になっているいちばん高い小さな屋根のところだ。」と、モラエスは武庫川に面した松凉庵で昼食をとったことを記しています。

寳塚旅館 松凉庵


「寳塚旅館 松凉庵 閑静にして眺望絶佳」









宝塚温泉を代表する旅館の一つであった松凉庵は、明治時代の創業で、平成まで営業を続けておられました。元は別荘で、敷地内から湧出する温泉(内湯)を有していたことが当時の旅館案内に記載されています。旅館跡は、1階に「焼肉宝船」「ラーメン工房 あ」が入居するマンション「ヌーベル・ヴァーグ宝塚」になっています

モラエスが送った「丁子ヶ瀧」等の絵葉書

明治4311月、妹フランシスカに送った「丁子ヶ瀧」の絵葉書には、「お前に話したことのある宝塚(宝塚丁子ヶ滝)の風景だ。ここにはぼくは度々行っている。」と、度々宝塚を訪れていたモラエスだが、特に丁子ヶ瀧がお気に入りであったようです。「丁子ヶ瀧」の表記は、「丁字瀧」、「長壽瀧」、現在の「丁字ヶ滝」まで、時代とともに変遷しています。
攝津寳塚丁子ヶ瀧


「攝津寳塚丁子ヶ瀧」




















モラエスは、この他「松凉庵玄関」「宝塚温泉浴場」「宝塚温泉場全景」「見返り岩トンネル」等の絵葉書をポルトガルに送っています。「摂津宝塚見返り岩」の絵葉書には、「数日前にこの道をぶらついた。とてもきれいだ。」と記述しています。

当時、神戸の山本通りに居住していたモラエスは、東海道線三ノ宮駅(現元町駅の位置にあった)から東海道線に乗車し、神崎駅(現尼崎駅)で阪鶴線(現福知山線)に乗り換え、約1時間30分掛けて宝塚を訪れていたと思われます。なお、訳文は彩流社発行、訳者岡村多希子「モラエスの絵葉書書簡」を引用させていただきました。




今回は、尼崎駅から福知山駅に至るJR西日本の鉄道路線福知山線の歴史を辿ってみます。なお、東海道本線の大阪駅~尼崎駅間を含む大阪駅~篠山口駅間の系統は「JR宝塚線」という愛称付けられています。

 

川辺馬車鉄道から福知山線までの変遷

福知山線は、明治20伊丹の酒造家小西新右衛門中心となって設立した川辺馬車鉄道始まりです。川辺馬車鉄道は明治24年7月尼崎~長洲間を開業し、9月には伊丹まで延伸しました。川辺馬車鉄道は、馬27頭、客車7両、貨車8両を所有し、馬の牽引で線路上の車両を走行させたそうですが、開業翌年には摂津鉄道と改称し、その後、輸送力増強のため軽便鉄道に変更されました。

攝津鉄道は明治30年、阪鶴鉄道に全線譲渡され、線路幅は762㎜から1067㎜に改軌されました。明治32年に尼崎~福知山南口間を全通した阪鶴鉄道は、明治40年に国有化され、阪鶴線に、その後福知山線に改称されました。
阪鶴他全景(ブログ用)

明治末期~大正初期の宝塚駅周辺








明治35年「阪鶴鉄道名所案内」の宝塚名所

箕面有馬電気軌道(現阪急)開通前の明治35年に発行された「阪鶴鉄道名所案内」には中山駅(現中山寺駅)、宝塚駅の近在の名所が案内されています。

中山駅の項には、中山寺をメインに、かつて中山寺境内から奥の谷合にあった中山温泉と山本牡丹園が案内されています。山本牡丹園は、「昔時豊太閤の知遇を受け接木太夫の称号を賜はり坂上善太夫は実に当村の出にして其子孫当村に在住し今や阪上を姓とする者村内三分一を占め爾来村民種樹園芸を業とし(略)牡丹の種類も亦た夥しく巳に数百種に至り花時の艶麗殆んど言語に絶す」と記載されています。

宝塚駅の項には、宝塚温泉、清荒神清澄寺、塩尾寺が案内されています。宝塚温泉は、「近年此鉱泉の効用内外人共に知る処となり来浴する者頗る多し武庫川の南崖に沿ふて清潔なる旅館割烹店を建設し浴客の求めに応ずる者十数軒の多きに達し」と、外国人も含め来浴者が頗る増加していると記載されています。

 

惣川駅と貨物ヤード
  
福知山線の宝塚駅と生瀬駅の間には、かつて惣川(そうかわ)という駅がありました。大正2年9月に開業しましたが、乗降客が少なく、大正15年に旅客営業が廃止されています。駅は、桜ガ丘の旧松本邸、ブドウ池から福知山線へ直角に下りた辺りにありました。

ただ、惣川駅開業9年前の明治37年に、仮設で阪鶴鉄道宝塚駅から約880mの場所(生瀬橋東詰付近に当たる)に側線が敷かれ、貨物集積場が設置されたことが記録に残っています。明治37年は、タンサン増産のためにウィルキンソン生瀬工場が新設された年に当たるため、惣川貨物ヤードは、ウィルキンソン社の要望により設置されたと考えられます。生瀬工場から荷牛車に積んだ製品を生瀬橋経由で貨物集積場に運び、専用の貨車で輸送したのでしょう。なお、ウィルキンソン社の社内資料によると、貨物集積場の用地はウィルキンソン社が購入し、後に鉄道会社に寄付したと記載されています。

惣川貨物ヤード(ブログ用)

惣川ウィルキンソン専用貨物ヤード





良元村と宝塚町が昭和29年4月1日に合併し、宝塚市が誕生しました。その後、長尾村、西谷村を編入、長尾村の一部が分離し、昭和30年4月1日に現在の宝塚市域になりました。

合併時の良元村の村長が、兵庫県下初の女性村長であった岡田幾(おかだ いく)で、宝塚市誕生時は市長職務執行者を務め、市の基盤づくりに大きく貢献しました。岡田幾は著名な俳人でもあり、俳号を岡田指月(おかだしげつ)と称し、芦田秋窓とともに白扇社を創立し、俳誌「白扇」を主宰しました。


俳人岡田指月として
 月は宝塚の中州にあった自宅を「無為荘」と称し、俳誌「白扇」を発行する俳画院の拠点としました。「無為荘」は、交流が深かった浄土真宗本願寺派の法主大谷光瑞が命名しました。大谷光瑞は、発掘調査のため探検隊を西域、インド等に派遣したり、神戸岡本の山麓に二楽荘という広大な別邸を建てたり、スケールの大きな生涯を送った人物です。
岡田指月と句碑

岡田指月と句碑(宝塚聖天にて)










 昭和34年には業績が評価され、兵庫県文化賞が指月に授与され、授賞を記念して宝塚聖天(真言宗七宝山了徳密院)に句碑が建立されました。句碑には、「無為といふ たゞそれのみや 霜の声」と刻まれています。指月は宝塚市民の俳句の普及にも貢献し、昭和30年代には、宝塚市(教育委員会)主催で俳句大会が開催され、指月は審査員を務めました。

村長岡田幾として
  
岡田幾は婦人会長等を務めた後、昭和26年7月5日、合併問題で混乱下の良元村の村長に当選しました。61歳でした。小浜村と合併の予定だった良元村は、小浜村が単独で町政を施行し宝塚町と改称したこともあり、不信感を抱き、西宮市への編入を検討した。しかし、良元村民の宝塚市制への願いは強く、住民投票で西宮市との合併が否決され、混乱の責任を取り村長は辞任した。その後任が岡田幾で、混沌とした状況の良元村をまとめ、宝塚市の発足を実現しました。

岡田幾は、村長就任時にはその覚悟を、市制誕生時には喜びを、村長辞任時には安堵を俳句に詠んでいます。

(村長就任時)「身をすてて ゆくや茨の 夏の道」

(宝塚市制誕生時)「春光に 産声高し 宝塚」、

(村長辞任時)「戦ひは 終りて安き 日永かな」

 

夫・岡田源太郎

岡田幾の夫の岡田源太郎は紡績業界の重鎮で、内外綿㈱の社長を務めました。地元においては、小林一三が設立した武庫川倶楽部の世話人総代や、戦時中から昭和24年までの激動期の宝塚ゴルフ倶楽部の理事長を務めました。武庫川倶楽部は、小林一三が創設した会員組織で、宝塚ホテル内に事務所が設けられました。会員には、阪急沿線に居住する有力者を募り、会員の親睦とともに宝塚ホテルや沿線の利用拡大を促しました。左は、昭和3311月に行われた宝塚ゴルフ倶楽部の香宝橋の渡り初め式の写真で、岡田源太郎、幾夫妻が先頭を歩んでいます。

宝塚ゴルフ倶楽部・香宝橋渡り初め
宝塚ゴルフ倶楽部・香宝橋渡り初め


武田尾温泉は、JR福知山線武田尾駅から西へ徒歩約5分の武庫川の峡谷沿いにあり、宝塚市、西宮市にまたがっています。平成1610月の台風23号襲来時の武庫川氾濫による被害で、営業中の旅館は宝塚市域の「紅葉館別庭あざれ」と西宮市域の元湯旅館(現在は日帰りのみの営業)の2軒になっています。明治30年創業のマルキ旅館は、洪水被害抑止のための護岸かさ上げ工事により休業しています。

武田尾温泉と「紅葉舘別庭あざれ」

武田尾温泉は、江戸時代寛永の頃に薪を切り出しに行った武田尾直蔵によって発見されたと云われています。明治32年の阪鶴鉄道開通、武田尾駅の開設により、来遊客が増加し、大正3年には6軒の旅館が存在しました

武田尾温泉絵葉書(明治末期)ブログ用

武田尾温泉絵葉書(明治末期)









平成16年の台風23号で、館内に土砂や流木が流れ込むなど甚大な被害を受けた「紅葉館」は、4年間に及ぶ大改修で「紅葉館別庭あざれ」として平成2012月に再スタートしました。武庫川の渓流を望む源泉かけ流しの露天風呂とともに、和の真髄を極めた神田川俊郎直伝の料理を個室「茶寮『心』Shin」で頂けます。春は桜や山つつじ、初夏は新緑や蛍、秋には紅葉等と四季の自然が満喫できる武田尾にお越しください。

「アモーレ・アベーラ」と武田尾温泉

宝塚南口にある「アモーレ・アベーラ」は、皆様に愛されている阪神間を代表するイタリア料理レストランです。宝塚撮影所があった頃には、三船敏郎や森繁久彌等数知れない映画スターが訪れた「アモーレ・アベーラ」が武田尾温泉と由縁があったことをご存じでしょうか。

太平洋戦争中の昭和18年9月、同盟国イタリアが連合国と休戦したことで、神戸港に寄港したイタリア軍艦カリテアⅡ号の乗組員が日本の捕虜となった。すぐ開放され、ほとんどがイタリアへ帰国するなか、日本に残った僅かな乗組員のなかに「アモーレ・アベーラ」の創業者オラツィオ・アベーラがいました。大きな怪我を負っていたオラツィオはその傷を癒すため、武田尾温泉のマルキ旅館を訪れ、厨房で働くうち、同旅館の三女と恋仲になり、結婚することになりました。
「アモーレ・アベーラ」ブログ用jpg

「アモーレ・アベーラ」









その後、オラツィオは独立し、昭和21年に宝塚駅前にイタリア料理店「アベーラ」を開店しました。同じくカリテアⅡ号の乗組員で、オラツィオとともにマルキ旅館の厨房で働き、同旅館の長女と結婚したのが、東京南青山に本店を持つイタリア料理の名店「アントニオ」の創業者アントニオ・カンチェーミです。ともに日本におけるイタリア料理の草分けとなりました。

昭和46年に元の自宅を改造した洋館に移転した「アベーラ」は、オラツィオ没後、後を継いだご子息エルコレ・アベーラさんが店名を「アモーレ・アベーラ」に変更しました。閑静な住宅街にある洋館で、大相撲の貴景勝関が大好物のピザを含め先代から受け継いだ歴史あるイタリア料理を味わってください。














観梅のシーズンが近づいてきました。一千本を数える中山寺境内の梅林が有名ですが、戦前は、現在の宝梅町にあった「宝梅園」が阪神間随一の観梅の名所でした。

宝梅園及び成宝梅林、米谷梅林

昭和4年発行の「宝塚乃しほり」には、宝梅園を「寳塚町より数丁南方、(略)園内に数千株の白紅の梅樹あり、花候到らば馥郁たる清香を放ちて衣袂為めに薫ずるを覚え、一瓢を携行せる風人騒客の踵相接して賑ふ、蓋し絶好の観梅地として阪急沿線中の巨璧たるを失はない」と、観梅の賑わいとともに、阪急沿線で屈指の梅の名所であったことを記しています。
 「
宝梅園」が紹介されるようになったのは明治末期以後で、それまでは「成宝(じょうほう)梅林」が観梅の名所でした。明治36年発行の「寳塚温泉案内」には、「寳塚の町より数丁南の山麓に、成寳の梅林」と記載されています。場所が、「宝塚乃しほり」の宝梅園と同一表現であることから、成宝梅林は宝梅園の前身であったと考えられます。八馬財閥を興した馬兼介(初代)が、明治36年に煉瓦製造で富をなした成舞長左衛門が所有していた宝梅の土地を買収し、宝梅園と称する以前は、成宝梅林と呼ばれていたと思われます。
沿線案内宝梅ブログ用1

昭和3年頃の阪神急行電鉄沿線案内











清荒神駅の近くにあった米谷梅林も観梅の名所で、阪神急行電鉄(現阪急)の沿線案内図に、宝梅園とともに案内されています。鉄道唱歌に倣って作成された箕面有馬電車唱歌にも、「紫雲棚曵く山の端に 梅の香の米谷や 清荒神かみさびて 武庫川千鳥走りゆく」と米谷梅林が歌われています。

 

宝梅園・宝梅園牧場と八馬家

宝梅園を買収した初代八馬兼介は、八馬汽船、西宮銀行(後の神戸銀行)、西宮貯金銀行等を傘下に持つ阪神間有数の八馬財閥を築きました。初代兼介の死後、当主を継いだ三代目兼介は、大正12年に宝梅園土地建物合資会社を設立しました。大正14年に建設された宝梅園土地建物事務所ビルは、当時珍しい鉄筋コンクリート造り3階建てで、宝塚ホテルや旧温泉ホテル等の作品を残した古塚正治が設計しました。
宝梅園と宝梅園土地建物絵葉書ブログ用
宝梅園を見渡す宝梅園土地建物事務所ビル










昭和3年に兄の三代目兼介から宝梅園の経営を引き継いだ八馬駒雄は、家族共々この建物に住みながら、宝梅園の経営に専念しました。宝梅園では、梅林だけでなく、収入源として柑橘類、桃、イチジク、柿等も栽培されていました。ミカンは年産一万箱を販売し、阪神間はもとより日本海側に進出し、福知山方面では独占的な地位を占めていたそうです。戦後は、宝梅園農場株式会社を設立、乳牛牧場を経営し、「宝梅園牛乳」やヨーグルト等を販売しました。宝梅牧場は、現在の宝梅2丁目宝梅アーバンライフ辺りにありました。 

宝梅園は、眼下に聖心女子学院の白亜の校舎、宝塚ゴルフ倶楽部の緑、西は甲山、大阪湾越しには生駒の山々を見晴らす素晴らしい眺望で、清遊にも理想的な場所であった。八馬駒雄は、宝塚ゴルフ倶楽部でのゴルフ、宝塚会館でのダンス等宝塚をエンジョイしたそうです。



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