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新年にあたり、県内有数の初詣参拝者数を誇る清荒神清澄寺、中山寺を明治時代の外国人向け英文旅行案内書と共にご紹介します。初詣の際は、巡礼街道沿いにある森閑とした境内が清々しい売布神社も是非お立ち寄りください。
明治時代に、日本を旅する外国人にとってバイブルと云われた旅行案内書がありました。イギリス・マレー社発行の「マレーズ・ハンドブック(A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN )」で、この冊子に宝塚が案内されたことで、来宝外国人旅行客が増加しました。


明治26年外国人旅行者向け宝塚案内と清荒神

初めて宝塚が外国人向けに観光案内されたのは、明治26年発行の「マレーズ・ハンドブック」第3版で、このように案内されています。

『宝塚(宿泊施設:宝塚ホテル、洋式ホテル)西ノ宮駅から人力車で1時間。この地には良質の鉱泉浴と心地好い散歩道が存在する。特に荒神さんと“ながはま”(中山の間違い)の寺院への散歩道が素敵である。』
 まだ鉄道が開通していなかった宝塚へは、当時既に営業していた東海道線の西ノ宮(現西宮)駅から人力車で1時間掛かりました。宿泊施設として、「ウィルキンソン タンサン」の創業者であるクリフォード・ウィルキンソンが開業した宝塚(タンサン)ホテルを推奨し、見所として、温泉と清荒神、中山寺を挙げています。
下の写真は、明治末期にウィルキンソン社のDM絵葉書用に撮影されたものです。
ウィルキンソンと清荒神ブログ用
改修前の本堂を背に座る
C.ウィルキンソン










 清荒神清澄寺の境内には、第37世法主光浄和上が人柄に崇敬の念を抱き、蒐集した富岡鉄斎の書画を展示する鉄斎美術館「聖光殿」があります。現在は資料整理のため休館中で、展覧会は別館史料館で開催されています。市立中央図書館内の美術関連図書閲覧室「聖光文庫」は、鉄斎美術館入館料の寄付により設置されました。

明治32年外国人向け旅行案内の中山寺

訪れる外国人が増加したためか、明治32年発行第5版以降の「マレーズ・ハンドブック」では、中山寺が宝塚から独立して案内されています。

『中山寺(宿泊施設:錦の坊)三十三所観音霊場の第二十四番で、素晴らしい眺望と鉱泉がある。外国人には、「Fish Temple」として知られている。神崎駅(現:JR尼崎駅)まで鉄道に乗り、そこから支線に乗り換え30分超で中山駅(現:中山寺駅)に到着します。』

宿泊施設の「錦の坊」とは、山腹にあった中山温泉が、錦温泉と呼ばれた時期もあることから、錦温泉にあった温泉宿と思われます。なお、明治30年に阪鶴鉄道(現:JR福知山線)が通じており、阪鶴中山駅へのアクセスが案内されています。

明治末中山寺ブログ用

明治末期の中山寺
(塔頭から大師堂を臨む)









聖徳太子により創建された中山寺は、真言宗中山寺派の大本山であり、西国巡礼三十三所観音霊場の第二十四番札所として、古くから庶民の信仰を集めてきました。また、安産の観音さまとして知られていることから、安産祈願の若夫婦や、赤ちゃんを抱いてお礼参りに訪れるご家族が多く見られます。

ウィズたからづか1月号表紙


「ウイズたからづか」表紙
(2022年1月号)



宝塚映画祭が1119日(金)~1125日(木)まで開催されます。かつて撮影所があり、映画の都であった宝塚の映画文化復興のため、平成12年より毎年開催されている宝塚映画祭は今年で22回を数えます。メイン会場となる阪急売布神社駅前の映画館「シネ・ピピア」では、宝塚映画祭の原点となる宝塚撮影所で製作された映画を中心に名作が上映されますので、ご期待ください。

 

戦前の宝塚映画

宝塚映画製作所の引田一郎初代社長によると、宝塚映画は昭和3年頃に小林一三の指示で発足し、翌年、宝塚音楽学校の生徒の生活を撮影した作品があるそうです。その後、逆瀬川の上流に撮影所を作るという話があったようですが、小林一三が東京電燈(東京電力の前身)の社長に就任し、東京に赴任したこともあり、立ち消えになったそうです。その上、小林一三が東京に演劇・映画の㈱東京宝塚劇場(現東宝)を設立したことで、早くから計画のあった宝塚映画の方が出遅れる結果になったようです。

その後、歌劇「軍国女学生」の劇中に映写する映画を製作するにあたり、昭和13年8月に大運動場西北隅に撮影所が新設された。9月には宝塚経営部内に映画課が新設され、「山と少女」が撮影された。「山と少女」及び2作目の「雪割草」は、小林一三の意図で宝塚音楽学校の生徒だけで製作されたが、3作目の「女学生と兵隊」では、男優も加えられました。


宝塚映画製作所設立・新撮影所建設

 戦後、宝塚映画再建のため、㈱宝塚映画製作所が昭和26年8月に設立された。小林一三が㈱宝塚映画製作所を設立したのは、当時、淡島千景や乙羽信子等が映画会社に引き抜かれており、映画会社によるタカラジェンヌの引き抜きを防止することと、激しい労働争議を繰り返していた東宝の業務を補完することが目的であったと考えられます。昭和28年3月のスタジオ火災により、西宮北口のアメリカ博会場跡の体育館、映画館にスタジオを移した時期もあったが、いよいよ小林一三の指示で新撮影所を建設することになり、東洋一と謳われた宝塚撮影所が昭和31年4月に完成した。

宝塚映画製作所合成



(昭和34年頃の宝塚撮影所)










撮影所は、「国道176号線に面して約3000坪の土地に鉄筋コンクリート作りのかまぼこ型屋根の250坪のスタジオ2棟、170坪の木造スタジオ1棟、録音、編集スタジオ、映写室など1棟、それと広いオープンスタジオ(水掛不動、南の繁華街、小便たんご横丁など)がありました。」と、元助監督の野村純一さんが著書「歌劇の街 宝塚を賑わしたカツドウヤ達」に記されています。

宝塚撮影所製作の名作映画

宝塚撮影所では、32年間で176本の映画が製作されました。代表作として、森繁久彌主演の「世にも面白い男の一生 桂春団治」や小津安二郎監督の「小早川家の秋」、川島雄三監督の「暖簾」等が挙げられます。シリーズものでは、加山雄三主演の若大将シリーズ、江利チエミ主演のサザエさんシリーズが、宝塚撮影所で製作されました。撮影所は、昭和58年に閉鎖され、跡は関西学院初等部、トヨタ販売店等になっています。
宝塚映画製作所名作


(宝塚撮影所の傑作映画)




太平洋戦争の開戦直前から戦時中にかけて、代表作「沈黙」で知られる小説家遠藤周作は、母親、兄と共に仁川に住んでいました。灘中学に通う頃から旧制高校の入試に失敗した浪人時代にかけて、居住していたことになります。仁川が遠藤家の転居先に選ばれたのは、母親が音楽教師を務めていた小林聖心女子学院に近かったためと考えられます。

 遠藤周作は、当時の仁川の印象を「白く光っている仁川の川原を真中にはさんで、洋菓子のような洋館がたちならぶ小さな住宅村である。にもかかわらずこの小さな村はなぜかどこかの避暑地にも似たふん囲気をもっている。」と、エッセイ「仁川の村のこと」で記しています。

仁川月見ガ丘からの散歩道と法華閣

当時、遠藤周作が好んだ散歩道がありました。それは、現在の宝塚市仁川月見ガ丘にあった自宅から宝塚ゴルフ倶楽部を抜け、小林聖心の裏山を経て逆瀬川に下りる経路であった。
遠藤周作散歩道(ブログ用)

(左)ゴルフ場の抜け道

(右)法華閣道標









 周作は、散歩道の一角にあった法華閣という日蓮宗のお寺が大好きであった。夕暮れの法華閣の鐘が鳴り、小林聖心の夕の祈りの鐘がこれに応じて鳴るのを、宗教の違い、東洋と西欧の鐘の響きの違いを、不思議に思いながら聞いたそうである。法華閣は、宝塚ゴルフ倶楽部に隣接する仁川うぐいす台にありましたが、現在は、仁川小学校西側の歩道に立つ道標に痕跡を残すだけである。

創立百周年を迎える小林聖心女子学院

 カトリック女子修道会「聖心会」を母体に設立された小林聖心女子学院は、大正125月に武庫郡住吉村(現・神戸市東灘区)に設けられた住吉聖心女子学院を発祥としており、令和5年に百周年を迎えます。

大正15年に住吉村から小林に移転し、小林聖心女子学院と改称しました。移転にあたり建設された3階建ての校舎(本館)は、著名な建築家アントニン・レーモンドの設計によるもので、現在国の登録有形文化財に登録されています。
小林聖心女学院(ブログ用)


戦前の小林聖心本館 
(右下)屋上への階段






 小林聖心と程近い逆瀬川駅前の中州に、同じくアントニン・レーモンドによって設計されたプライス邸と呼ばれる豪邸がありました。「ウィルキンソン タンサン」の3代目社長ハーバート・プライスが親交の深かったアントニン・レーモンドに設計を依頼し、創業者一族が居住しました。現在、住居跡はコープ宝塚の駐車場になっています。


小林聖心女子学院の試練の時代

各界に人材を名門小林聖心女子学院にも試練の時代がありました。太平洋戦争開戦と同時に外国人シスターへの家宅捜索が始まり、その後、連合国の国籍をもつ18名のシスターは、神戸・北野町にあるホテルを転用した兵庫県第二抑留所(イースタンロッジ)に収容されました。シスターが、移送先の長崎抑留所から小林に帰ってきたのは、終戦後2カ月を経過した1017日であった。

 プライス邸の主のハーバート・プライスもイギリス国籍であったことから、昭和16年開戦と同時に抑留所に収容され、再度山にあった抑留所から解放されたのは、終戦の昭和20年であった。因みに、プライス家一族は、カトリック仁川教会所属のカトリック信者であったと聞いています。



宝塚では、明治4311月に電話業務が開始されました。当初の加入者は24名でしたが、大正12年発行「大阪を中心とせる近縣電話帳」によると、大正118月には145名に増加しています。加入者の氏名、職業等も記載されているこの電話帳から、当時の宝塚を窺い知ることができます。

宝塚局電話加入者の構成

大正11年のの電話加入者の構成は、旅館31名(21%)、別荘31名(21%)、商店21名(14%)、 料理業11名(8%)、芸妓置屋5名(3%)、その他医師、会社員等となっています。当時、宝塚温泉の全盛期であったため、旅館、料理業(店)、芸妓置屋等の温泉客向けの業種が多数を占めています。14%を占める商店も、温泉客向けの菓子商や、八百屋、精肉商、酒商等の旅館や料理店への販売が主と見られる商店が多くなっています。
電話帳(ブログ用)



大正12年電話帳(宝塚局の一部)

















一方、宝塚が風光明媚で療養地として著名であったことから、別荘を構える者が多く、旅館と並ぶ31名が登録されています。富裕層の別荘所有者にとって、高額な電話架設料、使用料を憂慮する必要がなかったことも構成比が高くなった要因と考えられます。

宝塚局1番~5番電話登録者

電話番号は申し込み順に登録されたようですが、旅館、料理店等の事業主は若い数字を欲し、競争になったと思われます。宝塚局電話番号1番は、逆瀬川等の護岸工事や住宅開発を行うとともに、宝塚温泉、宝塚ホテルを経営した実業家で、市の功労者として顕彰された平塚嘉右衛門が獲得しています。2番から5番は、2番寿楼、3番分銅家、4番泉山楼、5番松凉庵と当時の宝塚温泉の有力旅館が占めています。

電話帳合成(ブログ用)


















現存店舗としては、創業120年を越える炭酸煎餅「黄金家」が“56番煎餅商”、現在、御殿山に移転されている寿司「琴月」が“12番料理業”と、電話帳に掲載されています。

白洲文平等著名人の登録

興味深い人物が二人登録されています。一人は、終戦直後に吉田茂の側近として活躍した白洲次郎の父親である白洲文平。電話番号142番、住所・川面五反田で登録されています。白洲文平は神戸で綿貿易会社・白洲商店を創業、巨万の富を築き、伊丹には4万坪の白洲屋敷と呼ばれた広大な屋敷を所有していました。

電話番号38番は、住所が日ノ丘、氏名“中川くま”で登録されています。中川くまは「ウィルキンソン タンサン」の創業者クリフォード・ウィルキンソンの妻で、住所の日ノ丘はクリフォードが経営したタンサン・ホテルが建っていた場所です。ホテルは明治23年頃開業し、大正4年に廃業しましたが、その後建物の一部が生瀬の工場に移築されました。ホテル廃業後、生瀬へ移築される大正13年頃まで、一家の住居として使用されたようです。

その他、松方正義首相の四男で浪速銀行頭取を務めた松方正雄、大阪ガス・南海電鉄等の社長を歴任した片岡直輝及び石原時計店社長石原久之助の別荘が番号登録されています。






宝塚温泉隆盛時、温泉場、泉山楼、栄山等と向いの分銅家等の旅館街を貫く道は、宝塚のメインストリートで、本通りと呼ばれていました。今回は、本通りから塩尾寺に通じる参詣道と見返り岩に通じる柳橋付近をご案内します。

塩尾寺参詣道

聖徳太子の創建と云われている塩尾寺は、現在は「えんぺいじ」と呼ばれていますが、明治時代発行の「寳塚温泉案内」、江戸時代発行の「攝津名所圖會」のルビから、嘗ては「えんびじ」と呼ばれていたようです。江戸・明治時代の塩尾寺への道標が多く残存することから、相当多くの参詣客があったことが推測できます。写真は、本通りから塩尾寺に向かう参詣道を撮った大正時代の絵葉書です。本通りに近い参詣道には、立美家、喜山など多くの旅館が並んでいました。左の建物は、絵葉書や湯の花等宝塚の名産品を販売していた土産物店です。現在は、イタリア料理店と酒店になっています。右の建物の角に立つ「六甲山・塩尾寺 十一面観世音 すぐ十五丁」と彫られた道標は、現在、15mほど奥に入った場所に移設されています。この建物の場所では、現在、インド料理店が営業されています。

塩尾寺参詣道(ブログ用)


大正時代の塩尾寺参詣道









 塩尾寺にお参りの際は、参詣道の途中の休憩所にある祠にお立ち寄り下さい。嘗て温泉場(現ホテル若水)内の炭酸泉源に設置されていた「たんさん水」の石碑とお地蔵様が納められています。宝来橋が現在のS字橋に架け替えられる際に移設されたものです。因みに、参詣道を30mほど入った左手には、クリフォード・ウィルキンソンが明治23年に温泉場の炭酸泉源を原料に、天然炭酸水を製造、販売するために設けられた瓶詰工場がありました。工場は、明治37年に生瀬に移設されました。

柳橋から見返り岩方面

この写真は大正末期頃、現在のナチュールスパ宝塚の場所にあった旅館泉山楼から撮られた、見返り岩方面の風景です。下には、塩谷川に架かる柳橋が写っています。道は狭く、柳橋は、コンクリート製のようです。
泉山楼から柳橋(ブログ用)

泉山楼から見た柳橋方面










 明治40年発行の「大阪經濟雜誌」には、「更に踵を廻へして峡崕の山道を辿りて寶塚の邑に至る、入口に柳橋あり塗るにペンキを以てす、俗氣厭ふべし、素木のまゝにせば却って雅にして似つかしかるべきに、なぞ世の人々は心なきなど思ひつゝ歩める間に寶來橋の頭に立ちぬ。“こゝもまた人里なりき柳橋 青きペンキの鼻につきけり”」と記載されており、当時の柳橋は、木造で青いペンキが塗られていたようです。

柳橋の袂には、老舗の和菓子店「三徳(さんとく)もなか本舗」が写っています。玄関の右手には、栗羊羹の看板が掲げられています。住宅地図によると、昭和55年頃まで、この場所で営業されていたようです。

通りの右には、“御料理”の看板が掲げられた丸屋旅館が写っています。当時、丸屋旅館の他に須山等の旅館が並んでいました。丸屋旅館は、平成時代まで営業されていました。


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