カテゴリ: 宝塚案内書誌

 今はベッドタウンとなりましたが、武庫川、六甲の山を臨み、宝塚温泉を有する宝塚には、多くの方々が観光に訪れましたました。観光案内も多く刊行されました。
まず、明治時代に出版され、最古とされる宝塚案内「寳塚温泉案内」をご紹介します。

この「寳塚温泉案内」は、明治36年7月に大阪心斎橋の矢嶋誠進堂書店から発行されました。著者は、大阪朝日新聞の著名な記者であった加藤紫芳で、表紙と巻頭の色刷り版画は同じ大阪朝日新聞の画家の三谷貞広が担当しています。
タテ15cm×ヨコ10.8cm。53ページ。


宝塚温泉案内表紙(表紙)
三谷貞広による宝来橋のスケッチ。初代宝来橋は明治35年頃に架かったと推測されるため、この書物の刊行時期から、竣工後間もない
宝来橋と考えられます。
この書物には、「宝塚有志者の醵金に成りしものにて、一切他の支出を仰がず、橋杭1本づつ橋の中央に並列して橋桁を支へしめたる構造の奇なる、他に類例を見ず」と紹介されています。








宝塚温泉案内全景版画
三谷貞広による宝塚の全景のスケッチ。橋のたもとに旧温泉場、山手には、分銅の紋が目印の旅館分銅家が見えます。






     宝塚温泉案内宝塚駅          (右の写真)
 当時の鶴鉄道(現JR西日本)の宝塚駅の写真が掲載されています。  本文には「宝塚停車場  宝塚と川を隔てて相対し、宝塚より停車場迄は僅に二丁余に過ず、本駅は小浜村大 字川面にありて、里道駅前に通じ、南は見佐に、北は生瀬に至りて県道に合す」と紹介されています。

                            
                                                            
                                     
   


(広告)
興味深い広告が掲載されていますので、ご紹介します。

宝塚温泉案内ふんどうや
宝塚温泉旅館・ふんどうや(分銅家)の広告。「弊館儀寳塚温泉創業の歳より江湖諸君の御愛顧を蒙り---」と記載。









                           
 宝塚温泉案内泉山
 宝塚温泉・旅館泉山の広告。  「寳塚は地勢高燥にして
後に山を帯び前に川を控へて眺望佳絶夏時の 
御避暑には勿論四時共御保養に最も適切の地
 に御座候---」と記載。










宝塚温泉案内宝塚病院
武庫川右岸の温泉街にあった春日病院(寳塚病院)の広告です。
「近頃医師春日育造氏の病院を建設して春日病院と称し、浴客の不時に供え、且は土地高燥にして病痾療養に適切の地なるを以って、病者収容の為特に尽力せらるるもの---」と紹介。

   川辺郡小浜村川面字大藪にあった寳塚新聞社により昭和4年9月に発行された宝塚案内です。タテ12.5cm×9.5cm。96ページ。
 宝塚には、大正時代に「寳塚案内誌」を著した藤井碧浪のたから新聞社がありますが、この寳塚新聞社の前身かもしれません。

はしがきに、美文で宝塚が紹介されています。
「湯の町ー宝塚は、藤原朝以来霊泉を以って鳴る旧温泉を中心に、各旅館とも効験いみじき泉質の内湯を設へて、四季絶らせぬ湯治客の讃向かえ仰を博しているばかりではありません。歌劇の町、民衆娯楽の地としても関西に冠絶せる名声を壇にしてをります。あの観衆客五千人収容の宝塚大歌劇を始め幾多の娯楽設備は克く整ひ、典雅華麗なる少女歌劇あり、新時代の尖端を行く演劇あり優秀なるキネマあり、動物園あり、運動競技場あり、凡そ大衆の目に楽しみ目に美しく映ずる遊覧と娯楽の完備は殆ど餘さざるなき有様であります。
 これと同時に宝塚はまた行楽清遊の絶好境地としてもしられてをります。その地勢上、土地は高燥であり空気は清澄、山青く水明らけく、風光の明眉と眺望の佳絶なるとは一度当地に足跡を印した人々の異口同音に絶さんして止まざる所であります。そしてこの山紫水明の大自然を背景に青楼旗亭、軒甍を列ねて櫛比し校書の絃歌さんざめいて、湯の街、歌劇の街にまた別趣な歓楽境を展開しているのであります。」

          (表紙)
宝塚乃しほり表紙宝塚乃しほり裏表紙
裏面には、この案内に広告も出しているスポンサーの松凉庵と発行元の寳塚新聞社と価格20銭が記されています。









(宝塚節)
宝塚新聞社が、宝塚の宣伝のため、募り、制定された宝塚節が紹介されています。抜粋してご紹介します。当時の宝塚の情景が思い浮かびます。

「夏は花火の武庫川開らき
        水を五色に染め別ける
 秋は月見の山越へ来れば
        鹿も妻呼ぶ紅葉谷
 寳塚への約束きけば
        わたしや胸まであつうなる
 向は武庫川こなたはかげき
        うたと河鹿の聲と聲
 あいにきたとて武庫川沿いに
        顔を見らるる月見山
 二人こっそり家族ゆすまし
        そっとかぶった甲山」

「他人まじらぬ河なきわたし
        晴れてうれしい月み山
 武庫の川上河鹿の名所
        下の歌劇は日本一
 右は温泉左は歌劇
        月の武庫川鮎がすむ
 河鹿うぐひす山ほととぎす
        寳塚なら寝て聞ける
 皆んなお越しよこの寶塚
        黄金ふくんだ湯を飲ます」


「上に蓬莱下には迎寳
        千歳かわらぬ夫婦橋
 私しや温泉あなたは歌劇
        仲をとりもつ武庫の川
 西は有馬よ東は大阪
        中で榮える寳塚
 千歳橋から温泉見れば
        湯気に巻かれた月が出る」

           (広告)

中に興味深い広告が掲載されていますので、ご紹介します。

宝塚乃しほり清宝自動車
「清宝自動車株式会社」
宝塚と清荒神間の乗合自動車の案内広告。本社・宝塚・栄町。
後に、阪神国道自動車(阪神バスの前身)が買収し、宝塚~清荒神間を運行開始したそうです。








宝塚乃しほり 丸信貨物自動車部 (丸信 貨物自動車部)
    本店 宝塚南口ホテル前。
   大阪-宝塚間定期。










宝塚乃しほり 淡路屋
「淡路屋食堂(生瀬駅構内・阪急宝塚停留所前)」
今も駅弁で有名な淡路屋の広告です。鮎寿司が有名であったようです。








      

宝塚乃しほり 岸田写真館
 (岸田写真館)
 阪神大震災までは、花の道沿い
 に店舗があった老舗・岸田写真館
 の広告です。現在は、山本のあい 
 あいパークの近くに移転されています。







宝塚乃しほり 宝鉱泉
 (宝鑛泉)
宝鉱泉三大製品。スイートメロンの香高きホレタン。オレンヂの果汁からなるビーラ。大衆飲料として声価あるタカラサイダー

宝塚では、明治30年頃から鉱泉の瓶詰め、販売がなされていたようです。。
明治42年3月に設立されている宝塚鉱泉合資会社は、この宝鉱泉の前身と何らかの関係があったかもしれませんね。












大正9年12月発行。著者及び発行人は武庫郡本山村の松田壮志郎。冒頭に著・松田雪城と記載されていますので、本名が松田壮志郎と考えられます。松田雪城には、「黒板画法 練習図録」という著書があるため、書家であったと思われます。タテ18.5cm×ヨコ12.5cm。62ページ。


序文では、このように宝塚が紹介されています。
「六甲山東面の麓に淙々たる清流あり、武庫川と云う北川を挟みて清麗なる一廓あり、寳塚と云ふ、其南岸は兵庫県武庫郡良元村の内伊孑志に属し、旧温泉の所在地とし、其北岸は同県川邊郡小濱村の内川面村に属し、新温泉の所在地とす、先づ其南岸なる旧温泉に一浴して、同温泉の由来、付近の名勝を説き出さんかな。
          (省  略)
 当地の来客は、霊験ある温泉入浴の治病を目的とするものと、当地は山を負ひ川を控へたる風景絶佳なる仙境なるを以って、保養の為めにするものとあり、各れも阪急電車と阪鶴鉄道に據るを常とすれど、近来当地と西宮間に自動車の便あり、之に據るもの又少なからず、近々阪急電鉄西寳線の開通するに至らば神戸方面の来客殺到するに至るなるべし。」

       (表紙)          (序文)

宝塚沿線名勝誌表紙宝塚沿線名勝誌序文


この寳塚沿線名勝誌には、旧温泉の当時の旅館が多く紹介されています。一部ですが、あまり他の書誌に案内されていない旅館を紹介させていただきます。

宝塚沿線名勝誌旅館列挙
当時の旅館が案内されています。
電話番号の2番は壽楼、分銅屋は3番、泉山は4番。









              (梅源)                             (松楽館)
宝塚沿線名勝誌梅源宝塚沿線名勝誌松楽館

       (福亭)               (玉菱屋)
宝塚沿線名勝誌福亭宝塚沿線名勝誌玉菱屋旅館



掲載されている広告をご紹介します。

宝塚沿線名勝誌宝塚鉱泉広告
当時有名なタカラサイダーの寳塚鉱泉の広告です。













宝塚沿線名勝誌 大黒屋十三やき餅

十三橋南詰にあった十三焼餅の大黒屋の広告です。十三やき餅の由来が紹介されています。

大正2年3月発行。藤井碧浪(忠徳)著、たから新聞社発行。定価15銭。タテ18.5cm×ヨコ12.5cm。26ページ。

巻頭に、当時の箕面有馬電気軌道の小林一三の序文が、記載されています。
「六甲の秀嶺、吾孫子の峻峰相対峙して深谿あり、石を噛み岩に激する武庫川の一大清流は徐ろに其碧潭を展べて天空廣濶の域に入るところ、両岸に迫って新旧温泉の二大建造物を目撃すべく、更に聳然たる大廈高楼甍を列べて、山村に偉観を呈せるを睹ん、是れ即ち寳塚なり、一に温泉場としての寳塚は、他に山紫水明の美を以って誇りとなす、知人藤井碧浪子寳塚案内誌なるものを編して余に序を徴す、就て一見するに、内容完備其梗概を知るの便あり、若夫れ東西の旅客此書によって我寳塚の楽天地に親むを得ば其光栄豈に獨り著者碧浪子のみならんや。             辱知  小林一三」

     (表 表紙)        (表紙裏)         (裏 表紙)
宝塚案内誌表紙宝塚案内誌表紙裏能勢電宝塚案内誌裏表紙


本文の一部を紹介させていただきます

(宝塚温泉縁起)
宝塚温泉開湯の謂われ、開湯間もない頃の旅館の状況等が記されています。

 「寳塚塩尾寺の山腹より鉱泉の噴出する由を耳にして逸早く温泉場の計画を為したるは県下川邊郡小濱村の内川面村の住民故田村善作、岡田竹四郎の両氏なりしも資本尽きて間もなく失敗に終りしかば小佐治豊三郎氏は小梅某、小亀某の諸氏と共力して之が再興を為し併せて浴客の便利を計るべく小佐治氏は一旅館を開設したり、是即ち今の分銅家にして時は実に明治十八年なりき、次いで泉山楼の前身辨天楼、栄山楼の前身福柳亭、立美家等旅館の開業するありて漸く京、阪、神の各地より来り入湯する者あるに至れり、去れば前記分銅家を筆頭に二三の旅館が寳塚温泉場の基礎を成したる効蹟は永久に没す可からずとなすべきなり、其後寶来橋南詰なる寳山の開業を見、明治三十一年一月に至りて阪鶴線が大阪より寳塚迄の通路を開き、之に依りて寳塚に吸集する遊客の数は著しく増加し、同年壽楼の大建築竣成して業を始むるに至れり、是れ北岸寳塚嚆矢の旅館として第一に指を屈す、翌年阪鶴線は延長して生瀬に開通し、更に二星想を経て三田に延長し漸次交通機関の便を加へ従って来遊の人士日に多し、
斯の如く分銅家、泉山楼、立美家、栄山楼、壽楼等の各旅館と阪鶴線の開通とに由りて寳塚を維持経営すること拾数年、最近明治四十三年三月に至りて箕有電鉄の開通するや頓に盛況を加へ、旅館料亭の激増物価地価の騰貴は驚くべき高潮を示し、遊客亦跡を絶ず轉た隔世の感に堪へざらしむ、」

(工業界)
工業界として、当時の宝塚の唯一の産業であったと思われる炭酸水製造会社の寳塚礦泉、ウィルキンソン炭酸礦泉が紹介されています。ウィルキンソン炭酸礦泉は、三ツ矢平野水に次ぐ会社と記載されています。

 「由来寳塚の地質炭酸泉に富めるが故に主として之に類する工業会社を占む、即ち寳塚礦泉合資会社(支配人椙原透氏)は、北岸寳塚に在り、たからサイダー、たからフレース等の飲料水を製出し、産額頗る多大なり、更に寳来橋を南に渡り武庫川の南岸に沿うて上ること二丁にして丁壽ケ瀧、見返り岩等宝塚の名勝に達す、尚数丁にして倉庫建亜鉛葺の一大工場を認むるはウヰルキンソン炭酸礦泉株式会社(社長英国人ウヰルキンソン氏)なり、数百名の職工は孜々としてサイダーの製造に従事す、其販路の多くは海外輸出にあり蓋し飲料会社としては彼の三ツ矢平野水に次ぐ大会社なり、」

(言論機関)
この宝塚案内誌発行元であるたから新聞社が紹介されています。
大阪と神戸に支局があったそうです。

「言論機関、としては新聞紙法の命ずる保証金を供託せる新聞紙あり明治四十四年八月より発刊せる週間発行のたから新聞と謂う、本社を北岸寳塚に置き、大阪及び神戸の二大都市に支局を有す、社長は米国文学士法学士坦和三郎氏なり、」
宝塚案内誌郵便局写真
写真で、たから新聞が紹介されています。








(地図)
当時の地図が記載されています。地図には、炭酸会社、〒(宝塚郵便局)、病院(春日病院)が紹介されています。

宝塚案内誌地図全体


(広告:今里屋久兵衛)
 かつて、十三大橋の北詰にあった「今里屋久兵衛」の広告です。「今里屋久兵衛」は、今は、阪急線十三駅西口改札の前に移転しています。団子を平たく押しつぶしたような「十三焼」が名物です。

宝塚案内誌今里屋広告










明治33年9月20日大阪經濟社発行「大阪經濟雑誌(第9年第4号)」に「月見散歩寳塚行脚」として、当時の宝塚の近況、裏事情など興味深い見聞録が掲載されています。
宝塚行脚この雑誌は、明治時代の宝塚を案内した最古の書誌「寳塚温泉案内」の3年前に、また、宝塚温泉が開業して13年しか経過していない時期に発行されており、当時の宝塚が窺い知れる貴重な記事が掲載されています。
 特に、温泉場を経営した保生会社について、また、当時の旅館の料理、料金やウィルキンソンが着手する前のラムネの売り出しなど、新事実が発見できました。

寳塚温泉
当時有名であったとする3旅館の特徴を述べています。
 泉山楼(せんざんろう)は料理を、分銅屋(ふんどうや)は座敷を、寶樂家(ほうらくや)は客筋を特色としている。この他に丸庄(まるしょう)、寶泉樓(ほうせんろう)、豊島屋(てしまや)などの旅館があるが、これという特色はない。
(原文)
「松樹蒼々の間に点々聳立する幾十の人家、皆是浴客の為に設けたる旅舘に非ざるはなし、而して此旅舘の内にて、最とも名高きは、
 泉山樓(福井善兵衛)   料理を特色とす
 分銅屋(小佐治豐三郎) 坐敷を特色とす
 寶樂家(小梅佐七)    客筋を特色とす
の三軒にして、此外に丸庄、寶泉樓、豐島屋などあれども、別に之といふ特色なきが如し、温泉の効能に付ては、緒方維準、高橋正純、清野勇、櫻井小平太氏等の、試験成蹟若くは証明書に依れば胃腸病に最とも効ありと云へり、」



保生会社
地元から鉱泉湧出地を借地して温泉場を開業した保生会社について、裏事情も含めて、興味深い内容が語られています。温泉場の開業が明治19年と書かれていますが、当時の新聞によると明治20年5月5日が正式な開業日となっています。
 温泉場は、分銅屋と泉山楼の主人が資金を出し、他に岡田竹四郎、田村善作が発起人となり、明治19年に開いた。大阪川口の牛乳屋「延利軒(えんりけん)」の主人であった小佐治豊三郎はこの温泉地周辺の土地を購入する時、もともと温泉を開くのが目的であったが、牧場にするという口実で1反につき10円というほとんど捨て値のような相場で購入できた。当初、2万5千円(1株25円)の株式会社を発足させ、会社名は保生会社(ほせいかいしゃ)と名付けた。社長には石原久之祐(助)(いしはらひさのすけ)を推挙した。後に萩原吉兵衛、春元重助等が1株25円の株を30円で買い上げ、石原氏を追い出した後、萩原を社長にし、春元、小栗、小梅、小佐治、小亀等数氏の合資会社にした。本年は盛況で、入浴客は多い時は1日700名にのぼることもあり、夏の間も平均で1日500人来場している。
  浴料は下記の通り。
   ・特別(1湯槽(ゆおけ)1回)   20銭
   ・上等(一人前)          5銭
   ・並等(一人前)          3銭
1人1回5銭で1日2回入浴したとして、平均1日の収入は50円になる。10年前1反僅か10円の僻地が今や1坪15円を出しても碌な場所は手に入らない。
(原文)「抑そも此温泉の開發者は、分銅屋と泉山樓の主人が金主となり、外に岡田竹四郎、田村善作などいふが發企人となりて、去明治十九年に、始めて開いたのであるが、分銅屋の主人小佐治豐三郎は、其以前大阪の川口で、牛乳屋をして居た延利軒の主人で有たから、始め此温泉の地面を買入る時には、表面牧場にするといふ口實で有た、土人等は今日の様に繁昌するとは夢にも思はなかったから一反歩に付拾圓、殆んど捨賣の様な相場で、賣ったのであるが、小佐治は素より温泉を開くが目的なれば、其後之を貳萬五千圓一株貳拾五圓の株式會社にして、保生會社と名づけ、大阪の石原久之祐氏を其社長に推擧した、所ろが石原氏は有名の耶蘇教であるから、斯る遊び場所の會社の社長にしては、どうも受が悪い、ソコで耶蘇教嫌ひの株主中、萩原吉兵衛、春元重助氏等一團と成て、株の買占をなし、一株貳拾五圓の株を参拾圓に買上て、首尾よく石原氏を追出した後、更に萩原氏を社長として、春元、小栗、小梅、小佐治、小龜等數氏の合資會社にしたのである、然るに本年の如きは、浴客四方より群集して、一日の旅客多き時は殆んど七百名に上りし事ありと云へば、七、八、九の盛夏三ヶ月の平均、一日五百人の浴客と見て大差なかるべし、浴料の定めは、
  一特別(一湯槽一回) 金貳拾錢
  一上等(一人前)    金五  錢
  一並等(同上)      金参   錢
なるを以て平均一人一回五錢、一日二回入浴すると見て、一日の収入應に五拾圓なるべし、アゝ十年前には一反歩僅かに拾圓に過ざりし山間の僻地今や一坪拾五圓にても、ロクな地面手に入る事覺束なしといふ、」

 
  
寳塚美人
寳塚美人とは芸者さんのことを指しており、温泉が盛況で神戸より芸者さんが出稼ぎに来ているという話である。
 温泉には美人(芸者)が付き物である。昨年以来、夏の間だけ、神戸から出稼ぎに来ている芸者がいるが、今年に入って増加し合計6名になっている。しかし、最近「小三(こさん)」、「小力(こりき)」の2人は神戸に戻ったため、今、宝塚に残っているのは「梅吉(うめきち)」、「廣助(ひろすけ)」、「長吉(ちょうきち)」、「たね」の4人である。
(原文)「寳塚の發達は、近年殊に著じるしき者あり、 (略) 昨年以來夏の間だ、神戸より美人の出稼ぎする者ありしが、本年に入ては、其頭數更に増加して都合六人となれり、何れも海に三年の道樂を仕盡し、今又山に三年の修業を積んとせる天晴大膽の老武者なれば、伎倆中々鋭どく、多病の才子往々にして生擒るゝを見る、併し其六人の内にて
  小 三    小 力
の両個は、既に此頃客を啣えて神戸へ凱旋し、現に今残れるは、
  梅 吉    廣 助   長吉   たね
の四人なるが、何れも冬籠りの用意をなしつゝある者の如し、」


紳士別莊
明治30年の年末に阪鶴鉄道が宝塚まで延伸し、交通の便が良くなったためか、この記事が書かれた明治33年頃には有力者の宝塚への別荘の造営が増加したようである。 大阪朝日新聞社長の 村山龍平の別荘もあったようです。
 温泉あり、美人あり、殊に鉄道が便利であり、また、春の花、秋の月良し、避暑、冬籠りに最も良いことから、大阪の有力者でここに別荘を造営する者が既に十数人に上る。
主な人は、 大阪朝日新聞社長の 村山龍平、保生会社の社長にもなった東区南久宝寺町三丁目の萩原吉兵衛(小間物商)、中谷徳恭(大阪出身衆議院議員)などである。大阪南区塩町四丁目の木綿商瀬尾喜兵衛(後の近江銀行頭取)の別荘は目下新築中であるが、最も壮大で、宝塚第一の別荘となるであろう。
(原文)「温泉あり、美人あり、殊に鐡道の便利あり、春の花に宜し、秋の月に宜し、避暑、冬籠り、又最とも宜し、去れば大阪紳士の此所に別莊を造營する者、既に十幾人、此内の重なる者を擧れば、
      大阪朝日新聞社長                  村山 龍平
      大阪西區立賣堀南通五丁目  (質商)        牧野清兵衛
      同東區備後町一丁目      (洋鐡商)    長澤 富三      
           同東區伏見町四丁目      (洋端物商)   松井 岩助   
      同南久寳寺町三丁目      (小間物商)   萩原吉兵衛   
      同東區南本町四丁目      (羅紗商)     上田長三郎
      同南久寳寺町二丁目      (小間物商)   小山 由藏   
      同東區平野町四丁目      (時計商)    岡 橘兵衛   
其他中谷徳恭、清海よね、朝妻など、外にもまだ數戸あり、殊に
      大阪南區鹽町四丁目               (木綿商)      瀬尾喜兵衛
氏の別荘の如きは、最とも壮大なる者にて、目下新築最中 本月十二日上棟なるが、竣工の上は寳塚第一等の別莊となるべし、」


宝塚行脚2泉山樓
筆者は二人で泉山楼に宿泊しました。泉山楼の料理、料金等が詳細に記述されています。

 寳樂屋(ほうらくや)、分銅屋(ふんどうや)、泉山樓(せんざんろう)を宝塚の三大旅館とし、三旅館を批評しています。宝塚の三大旅館の内で、寳樂屋は一見のお客を取らない。分銅屋は見かけは大きいが、客扱いが悪い。泉山樓は入口は不潔だけど、武庫川の清流に臨む眺望とおいしいものを食べさせるという評判である。分銅屋と泉山樓の食事を食べ比べたが、優劣の判定が出来なかったが、泉山樓の方が手頃であったようだ。

泉山楼の食事の献立は次の通りであった。
  夕食  焼 肴(やきさかな)   はもの骨切り
       指 身(さしみ)      鰈、薩摩芋、山葵
       吸物(味噌汁)       こち、麩、
       猪 口(ちょく)       山椒
  朝食  皿 物(さらもの)     昆布巻
       向 皿(むかいざら)   椎茸、湯葉、麩
       汁 物(しりもの)     素麺、鶏卵の巻焼
       猪 口            奈良漬

泉山楼の料金は二人合計で次の通りであった。
   夕食              75銭(2人で150銭)
   お酒              70銭
   一等湯札6枚(温泉)    30銭
   花代(廣助)          54銭
   花代(梅吉)          54銭
   2人で合計3円58銭
芸者、仲居さんへの祝儀を加えて、1人わずかに2円足らずと、低料金で驚いています。
(原文)「寶塚三大旅舘の内にて、寳樂屋は一見のお客を取ぬといふ仕法を守って居る、分銅屋は見かけは大きひが、客扱かひが惡い、泉山樓は這入口が不潔なれども、武庫川の清流に枕みたる眺望と、甘ひ物を喰せるといふ評判である、併しながら余が試ろみに分銅屋と泉山樓との食物を喰比べて見た所ろにては、未だ俄かに其優劣の判定は出來ないが兎に角泉山樓の方は、主人自から庖厨を指揮する外、總て輕便を主として、客の懐ころを貪ぼらざる所ろに、勉強を見せる者の如し、
  晩食  燒 肴          はもの骨切り
       指 身          鰈、薩摩芋、山葵、
       吸 物          こち、麩、(味噌汁)
       猪 口          山椒
  朝食  皿 物          昆布巻
       向 皿          椎葺、湯葉、麩、
       汁 物          素麺、鶏卵の巻焼、
       猪 口          奈良漬
泉山樓一夜二食の献立右の如く、(略)、さて翌朝の勘定を聞ば、
        記
   一金七拾五錢           夕     飯  
   一金七拾錢          御     酒              
   一金参拾錢          一等湯札六枚
   一金五拾四錢         廣           助         
   一金五拾四錢         梅           吉         
     〆  金参圓五拾八錢
     右正に請取候也   泉山
之にお茶代と、藝者仲居への祝儀を加へて、一人前僅かに貳圓足ずの散財とは、何と驚ろくべき廉に非ずや、」



炭酸水
明治21、2年頃、小佐治豊三郎等(保生会社か)が温泉場の鉱泉を原料として、ラムネを作って売り出したが、失敗に終わった。その後ジョン・ウィルキンソンがその鉱泉を購入し、販売するようになった。市史などにおいて、ジョン・ウィルキンソンが鉱泉販売を手掛ける前に保生会社がラムネ製造場を建設していたらしいと記述されていますが、実際、ラムネを販売した証跡がありませんでしたが、この記事で販売もされたことが証明されました。
  明治21、2年頃、分銅家の小佐治豊三郎等の発案で宝塚の鉱泉を原料として、小判(こばん)「ラム子(ネ)」というものを作って売り出したことがあるが、失敗に終わった。その後、ふとしたことから神戸にいたウィルキンソンという男がその「ラムネ」の代わりに炭酸水を製造、輸出することを考え、小佐治豊三郎等(保生会社か)から初めは2合瓶1本1厘で20年の契約をして事業に着手した。その後、明治30年の大洪水で製造所を流してしまったため、約800円ほどの水代が滞って、一時は悶着を重ねたが、ウィルキンソンも多額の投資を重ねており、中止するわけに行かず、また、他に良い鉱泉もなかったため、示談の結果、1本の水代1厘5毛、向こう10年という内容で再契約することになった。今は1か月の製造高40万本にも及ぶ。(原文は英国人ジョン・クリフォード・ウィルキンソンを誤って米国人ゼームス・ウィリキンソンと記載されています。)
(原文)「明治二十一二年の頃、小佐治豐三郎等の發起で、寳塚の礦泉を原料とし、小判「ラム子」といふを作って賣出た事がある、然れども之は遂に失敗に了り、其後フトした事から、神戸に居た米國人ゼームス、ウィリキンソンといふ男が、其「ラム子」の代りに炭酸水を製造して、輸出するの工夫を考がへ、初めは二合瓶入一本一厘で、二十ヶ年の契約をして、着手したそふだが、去明治三十年の大洪水で、其製造場を流して仕舞た所ろから、凡そ八百圓程の水代が滯こほり、拂ふの拂はぬのといふて、一時は隨分悶着を重ねたが、米人の方でも、既に多額の資本を卸して着手した者を、今俄かに中止する譯にも行ず、去とては又外によい礦泉もない、結局米人の方から示談して、更に一本の水代一厘五毛、向ふ十ヶ年といふ再契約をする事に成て、現今盛んに製造し、其一ヶ月の製造高、殆んど四十萬本に及べりといふ、」

丁子が瀧
当時、宝塚随一の名所であった丁子が瀧は伊孑志村の共有地だったが、西宮の岩田吉兵衛、岩本勘二郎両人が借りていた。瀧には炭酸泉も湧出していたが、湧出量がわずかで大赤字であったようです。
 見返り岩の前に架かっている橋を「見返り橋」と云い、この橋の左に丁子が瀧があるが、ここには炭酸泉が湧出し、掛け茶屋もある。この辺りは伊孑志村の共有地であるけれども、この瀧と鉱泉は西宮の岩田吉兵衛、岩本勘二郎両人が借りている。地代は年10円、水代は月に2円で、合計年間34円の10年契約となっている。ここの地面はわずか90坪で、鉱泉の湧出高はわずか8石に過ぎず、掛け茶屋の主人が語るには、この鉱泉を開掘し、試験分析するために既に300円費やしているそうである。
(原文)「其見返り橋より右を見返れば武庫川の清流、左りを見返れば六甲の山續き、凡そ三丈餘の斷崖より、滔々響きをなして一條の白布を垂る、之を丁子が瀧といふ、此所にも炭酸水を湧出し、其瀧の麓には小さなる掛茶屋などあり、來遊の客を待ものゝ如し、一体此邊りは伊孑志村の共有地なれども、此瀧と礦泉とは、西の宮の岩田吉兵衛、岩本勘二郎両人の借地となり、地代年に拾圓、水代月に二圓、即はち一ヶ年参拾四圓にて、十ヶ年の契約なれども、資本の都合にて、空しく水を遊ばせて居と云へり、併し此地坪とて漸やく九十坪、礦泉は一晝夜の湧出高、僅かに八石に過ず、併し其掛茶屋主人の語る處ろに據れば、此礦泉を開掘して後、試驗分析等をなすにも既に三百餘金を費やしたれば、一坪の相場三四圓内外ならんとぞ、」

他に、京都南禅寺の本堂を再建するために設けられた団体である瑞龍會(会主・山口源兵衛)の泉山樓で行われた発会式について記載されていますが、省略しました。
  








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